象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

アドレ・フルーペットの頽唐詩集『レ・デリケサンス』


ガブリエル・ヴィケールとアンリ・ボークレールとの共著で、1885年に出たもの。1885年といえば、前年にユイスマンスの『さかしま』が出て、象徴派や頽唐派への関心が高まりつつあった時期で、この『レ・デリケサンス』もそういう流れにのった本として、けっこうな評判になったらしい。じっさい、象徴派の文学史には必ずといっていいほど言及されるが、その内容についてはあまり触れられていない。いったいどういう作品なのか。

本書の再版(ヴァニエ版)には、マリウス・タポラによる「アドレ・フルーペット伝」が序文代りに置かれている。もちろんこれは架空の伝記で、ガブリエル・ヴィケールの筆になるものだ。

ここでは、アドレ・フルーペットという名の、地方都市に生まれた一青年が文学に地道をあげ、やがてパリに出て、デカダン詩人たちの仲間入りをはたすまでの経緯が物語られているが、このフルーペットという人物は病的でもなければ奇矯でもなく、もちろん天才にはほど遠い。たんなる文学好きで世話好きの好青年にすぎないのだ。

ついで短い「緒言」があって、そのあとに18篇の韻文詩が並んでいる。

この18篇の詩を眺めていると、なんとなくヴィケールとボークレールの意図が見えてくる。それは何かというと、象徴派やデカダン派をネタにして、一種の紋切型辞典を作ろうとしたのではないか、ということだ。

象徴詩や象徴派から紋切型をとりあげて、そのパロディを作ることで、かれらを牽制しつつ嗤いのめすのがこの詩集の目的だったのではないか。もしそうなら、アドレ・フルーペットが凡庸きわまる人物として描かれているのも納得できる。

ヴェルレーヌマラルメとは本書のなかでも特別扱いされている。もちろん象徴派の二大巨頭と目されているのだが、ヴェルレーヌはブルーコトン、マラルメはアルスナルと、それぞれおやじギャグ的な変名が使われているところにも悪意が感じられる。ブルーコトンはあたかも阿呆王のごとく、そのご託宣には無条件の渇仰が与えられ、アルスナルはその詩文で文字どおりブルジョワどもを驚倒させる(作中における犠牲者はプーラール夫人)。

というわけで、なかなか手の込んだパロディ作品なのだが、いかに象徴派の凡庸さが強調されても、その凡庸さにすら美点を見出すようでないと、真の愛好家とはいえないだろう。私は一世紀ほど遅れてきた象徴派として、これら押韻の手管だけでできているような詩にもふしぎな魅力を感じる。われわれにはこういう極端にデフォルメされたものでしか、象徴詩の特異性を窺い知るすべはないのだ。

ちなみに題名のデリケサンスとは、辞書をひけば「潮解」という訳語が出てくるが、おそらくデカダンスの同義語だと思われる。

厨川白村によるレルベルグの紹介


このブログと並行して細々と続けているレルベルグの翻訳だが、今回の詩篇は自分で訳さずに厨川白村の訳詩を借りることにした。というのも、彼が「詩人ヴァン・レルベルグ」(『小泉先生そのほか』所収)で初めて日本にレルベルグを紹介したときに、この詩を訳しているからで、私にとってはある種の記念碑的なものになっている。


白村の紹介文は短いけれども要を得たもので、だいたいレルベルグに関して必要なことは押さえてある。これだけ知っていれば、レルベルグの詩を読むのに何の不都合もない。彼に関する細々した、プライヴェートなあれやこれやは、作品の読解に邪魔になるだけだ。たとえば、レルベルグはプレイボーイではなかったけれども、それでも何人かの女と不器用なラヴアフェアを繰り返している。しかしそんなことを知っても彼の詩を読むうえでなんのプラスにもならない。

白村は慧眼にも彼とラファエル前派との浅からざる関係を見抜き、さらにキーツ、コールリッジに比較し、また彼の詩の理想的な挿絵画家としてビアズリーをあげている。たしかに、『イヴの歌』にビアズリーが挿絵を描いていたら、どんな本ができあがっただろうか。想像するだけでもわくわくしてくる。

『小泉先生そのほか』にはほかにもイエローブックを論じた文とか、ケルト文芸復興概観だとか、世紀転換期の文芸に関するさまざまな論稿が収められている。大正8年(1919年)の刊行で、もう100年以上前の本だが、同時代的な関心を喚び起こすという点ではいまだに魅力を失っていない。

篠田一士、諸井誠『世紀末芸術と音楽』


1983年に出た往復書簡集(音楽之友社)。

けっこうおもしろかったので、ネットにレヴューはあがっていないかな、と思って調べてみたが、この本に言及した記事は見当らなかった。

考えてみれば、1980年くらいから、「世紀末」という文字が一種の流行語のようになって、そういう名前を冠した書物が次から次へと出ていたような記憶がある。私がそういうものに関心をもっていたせいかもしれないが、世を挙げての世紀末ブームだったような気がする。

それがいったん2001年を迎えて二十一世紀になったとたん、その流れがぴたりと止ってしまった。それはまあ当然だろう。もはや世紀末でもない時代に世紀末ものがはやるわけがない。

とはいうものの、私の関心の的である世紀末は、二十世紀末ではなく十九世紀末なので、もちろん世のはやりすたりとは何の関係もない。それだからこそ今こうしてこういうブログを書いているわけだが、たんに時流に便乗したものであったとしても、あのころの熱に浮かされたような「世紀末ブーム」にはちょっと懐かしいものを感じてしまう。

さて本書だが、これもまたそういうムードの一環として企画されたもので、二人の音楽好き(片方は批評家、片方は作曲家)のあいだに交わされた往復書簡である。題名が示すとおり、世紀末芸術のもろもろが、その後(つまり二十世紀)の音楽にどういう関わりをもっているか、を考察したものだ。

こういう観点は、私にはすばらしく魅力的なので、この本もおもしろく読んだが、ヨーロッパの芸術が、少なくとも1930年代あたりまでは、じつにまっとうな歩みを続けていたことを改めて思う。その後、主導権はアメリカにわたり、第二次大戦後はアメリカ主導のかたちで芸術一般がポップアート化され、それが前世紀末(20世紀末)を経て今日に至っている。

二十世紀は少なくともベルクの『ルル』というオペラを生み出した。二十一世紀には、後世に残るようなオペラは誕生するのだろうか?

アルバン・ベルク『ルル』


これは、ある人々によれば、二十世紀最高のオペラらしい。そういうものに出会えただけでも、ヴェデキントの戯曲を読んだ価値はあった。



主役のクリスティーネ・シェーファーは、シェーンベルクの歌曲などでは「知的なリリックソプラノ」という感じだったが、このオペラでは非常に妖艶で蠱惑的な歌唱と演技を見せている。これは私にはちょっとした衝撃だった。ブルックシャンの大岡昇平も、このルルなら納得するのではないか。脇を固める人々もかなりの熱演で、こういうものが只で見られるとはいい時代になったものだ。

さて、私にとって、オペラは何よりもまず音楽なので、目をつぶって、耳だけで鑑賞に耐えるかどうかが大事なのだが、このベルクの作品はどうだろう。音楽そのものとしておもしろいかどうか。

無調ということで敬遠する向きもあるだろうけど、無調には無調の歌い方があるので、ベルクの無調は私にはけっこう心地よく響く。少なくともシェーンベルクよりはおもしろい。とはいうものの、この作品をヴィジュアルなしで3時間聴き続けることができるか、といわれれば、ちょっと厳しいものがある。

ひとついえるのは、3時間もこの手のものを聴き続けていれば、どんなものでもワーグナーになってしまう。無調であるか、調性があるかは関係ない。集中力が低下してくれば、どんなオペラもワーグナーに聞こえてくるのだ。それはある意味ではワーグナーの偉大さを語るものかもしれない。

パプスト『パンドラの箱』

1928年のサイレント映画。この一作で、ルイーズ・ブルックスは映画史上にその名をとどめることになる。



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じっさいのところ、この映画もまたそれなりに忠実に原作を追っているけれども、なんといってもヴェデキントの戯曲が、およそ劇的なおもしろみを欠いたもので、ただひとえに登場人物の異常さと、雰囲気の怪奇性のみ追い求めたようなところがあって、筋書きとしてはまれにみる凡作なのである。ただ、そのことだけをもってヴェデキントを凡庸な作家とみなすのは早計で、彼の作品が時代を映す鏡のようなものであるからこそ、「ルル」は世代を超えて読み継がれ、新たな作品として何度もよみがえってくるのだ。

パプストの映画は、ヴェデキントの劇のもつ下品さやいかがわしさを払拭したうえで、ルイーズ・ブルックスという適役を得て、原作とは別種のシックな趣を出すのに成功している。しかしながら、ここでは映画の魅力のほとんどがルイーズ・ブルックスに寄りかかっているので、映画を見たというよりは、生きて動いているルイーズ・ブルックスを見た、というほうが実情に近い。

もちろん好き嫌いはあるだろうが、この映画におけるルイーズ・ブルックスの突出ぶりには目覚ましいものがある。ここでは、筋書きも、演出も、他の登場人物も、すべてがブルックスを盛り立てるために存在している。つまり、ブルックス以外のすべてはたんなる口実、プレテクストにすぎないのだ。

山口昌男はこの映画を8回か9回見ているという。彼はパリの映画研究所かなにかで、特権的な状況においてかつてのサイレント作品を見まくっていて、それがまた自慢の種なのだが、こんにちでは動画サイトでそういうものはいくらでも見られるので、山口昌男的な視座にはもはやそれほど価値はなくなっているといえるだろう。

とはいうものの、山口の映画の見巧者ぶりには驚くべきものがあって、彼の映画評を集めた『スクリーンの中の文化英雄たち』という本には、そんな彼の魅力がいっぱいつまっている。いまの若い人にはどうだか分らないが、1995年ごろに新作を見るのをやめてしまった私のようなオールドファンには、かなりたまらない本になっている。