書物
岩波文庫の一冊。短篇やソネット、それに長詩などを収めた選集で、ふやけたような文語訳を別とすれば全体的によくできている。短篇では「林檎の谷」がよかった。これは象徴派に先駆けた象徴主義小説の小さい見本として立派に通用するだろう。ロゼッティ(本…
大正14年に出た本で、小日向の本としては容易に手に入るものの一つ。"The Blessed Damozel" "The Staff and Scrip" "Sister Helen" の三篇の詩を訳出、解題している。The Blessed Damozel はドビュッシーの名曲 La Damoiselle Elue のもとになった作品で、作…
だいぶ前に読みかけて、その台詞廻しのあまりのわざとらしさに辟易し、ずっと積読になっていたもの。それを今回わざわざ取り出して読んでみたのは、このところ古い日本の映画をずっと見てきて、その雰囲気の延長線上にあると思しいこの作品のことがふと頭に…
「アール・デコ文学双書」の第二回配本『イット』(エリナ・グリン 松本恵子訳)を読む。「イット」の持主である男女(男は無一文から身を起こした実業家、女は没落貴族の令嬢)の恋愛をめぐる心理的駆け引きを中心にした物語。風俗はいちおう1920年代のそれ…
象徴派の時代に続くのがアール・ヌーヴォーで、それの発展形としてアール・デコというものが考えられ、同時にその中心地はヨーロッパからアメリカへ移る。その後のアメリカ文化はジャズからポップカルチャーへと進むことになるだろう。いっぽうヨーロッパで…
1965年に原著が、1970年に訳書が出たもの(種村季弘訳、美術出版社)。訳者のあとがきによれば、当時は日本でもアール・ヌーヴォーがちょっとした流行だったらしい。著者のホーフシュテッターはアール・ヌーヴォーの研究家でもあるので、本書でもそっち方面…
この一風変った文筆家は若年の私をひどく悩ました。なにしろその全貌がわからない。こちらから見えるのはその指先や爪先だけなのだ。どこか全集を出してくれる本屋はないものか、とひそかに思っていた。ところが、吉行淳之介の「七変化の奇人」を読み、太宰…
ホーフシュテッターの翻訳者である種村季弘は、映画評論の分野でも活躍した。ところでそのホーフシュテッターは、象徴派の未来を映画のなかに見出している。そういう事情があるので、種村季弘にはもしかしたらホーフシュテッターの理論を応用した、象徴派の…
石川淳という作家は、はたして今でも読まれているのだろうか、という思いが頭をよぎる。どうも底が浅くて、すぐに飽きがくるような気がするのだ。本人はいっぱし文学の玄人のつもりで、文体もすばらしいが、かんじんの中身がすかすかなのである。しかし、そ…
ガブリエル・ヴィケールとアンリ・ボークレールとの共著で、1885年に出たもの。1885年といえば、前年にユイスマンスの『さかしま』が出て、象徴派や頽唐派への関心が高まりつつあった時期で、この『レ・デリケサンス』もそういう流れにのった本として、けっ…
1983年に出た往復書簡集(音楽之友社)。けっこうおもしろかったので、ネットにレヴューはあがっていないかな、と思って調べてみたが、この本に言及した記事は見当らなかった。考えてみれば、1980年くらいから、「世紀末」という文字が一種の流行語のように…
大岡昇平によれば、山口昌男が1975年に「朝日新聞」に出した小文が、ルイーズ・ブルックス復興の「戦後の第一声」である。その小文はのちに「スクリーンの中の文化英雄たち」という本に、「女性──この『存在論的他者』」という題のもとに収められた。この小…
1984年に出た大判の本(中央公論社)。ブルックスと大岡昇平との取り合せはちょっと奇異の感を与えるが、彼は学生のころ京都で『パンドラの箱』を見て、ブルックスの魅力に参ってしまったらしい。それが昭和5年(1930年)のことで、それからほぼ半世紀後の19…
本書にいわゆる「世紀末」とは、1890年代からナチスドイツによるオーストリア併合(1938年)までを想定しているらしいが、これはちょっと下限を長く取りすぎているような気がする。そのせいかどうか、収録作品の選択もどこか散漫な感じで、全体として焦点が…
筑摩の古い全集本で「大正小説集」というのを読んでいて、ちょっと引っかかったのが素木しづ子という女流作家だ。いっときは樋口一葉の再来とまでいわれたらしいが、24歳で夭折した。「大正小説集」に収められているのは「三十三の死」という作品で、そこに…
ランボー、ランボー、 アル中のランボー、 へんてこな やつ。こんな替え歌(?)を作って喜んでいた子供のころの私よ……ともあれ、小林秀雄のランボーは私を驚倒させた。私も小林とともに、ランボーという「事件」の渦中にしばらくいた。しかしその波は来たと…
楳図先生と象徴派とどう関係があるか。たぶん先生は象徴派なんてものにはまるきり関心がないか、あったとしても自分が象徴派であるとはまさか思ってはおられまい。私も先生の作品を象徴主義的な面から眺めようとしているわけではない。ただ、ここでひとつ書…
私としては、長いことドイツ語で親しんできた「道と出会い」以降の三篇を、日本語でもっと正確に理解したい、と思って買った本だが、最初から順を追って読んでみて、ホフマンスタールという不世出の天才がいかに自分と気質的に共鳴するタイプの作家であるか…
これはすばらしい本だ。私はこれを読んでラフォルグに対する考え方がすっかり変ってしまった。これまでは、ラフォルグといえばどうもあまりぱっとしない詩人という印象で、たいして人気があるようにはみえず、ラフォルグラフォルグといって持ち上げる人も見…
その刊行年(1954年)からもわかるように、本書は日本の詩壇の趨勢と同時代的に関わるものではなく、もっぱら訳者の個人的な嗜好によって趣味的に生み出されたものだ。まあ、詩集というのは本来そうあるべきもので、いたずらに時流と切り結ぶことのみをもっ…
この本は、『海潮音』と『牧羊神』、および雑誌に出ただけで単行本には収録されなかった拾遺篇からなる。本書を通読して思ったのは、やはり訳詩集としては『海潮音』のほうが『牧羊神』よりもすぐれていることと、拾遺篇にもすぐれたものが少なくないという…
翻訳者としての窪田般弥の力量はかなりのものだと思うが、本書の訳はちょっと甘いし、索引などを見てもどうもあまり使い心地がよくない。絵画史的なことを除けば、読者が知りたいのは個々の作品の原題とその訳なので、本書のように原題を故意に(?)伏せて…
大正2年に出た本で、私の読んだのは、そのうちの訳詩だけ独立させた岩波文庫のもの。本書については、ネットにおもしろい論文が出ている。著者の佐道さんにはいつもながら教えられるところが多い。 『珊瑚集』から『月に吠える』へ * * * わが国の象徴詩…
関西の研究者たちによる共同研究(1997年、ミネルヴァ書房)。21篇の論文が並んでいるが、私の関心に触れてくるものはほとんどない。というのも、ここで取り上げられている画家や文学者は、象徴派プロパーではなく、その周りを固めている守護神のような人々…
昭和57年に桜楓社から出たもの。象徴詩の愛好家にはおもしろく読まれるかと思いきや、なかなかもって取り扱いのむつかしい本ではある。というのも、白秋と露風の詩集すべてについて象徴性(著者のもちいる用語で、要するにサンボリスムのこと)をまんべんな…
私が最初に読んだフランス語の本は、ネルヴァルの『オーレリア』だった。どうしてそれを選んだかというと、尊敬する某氏が「まったく雲をつかむような、理解不能の書」というふうに紹介していたからで、そういうものなら、初心者にはかえって好都合なのでは…
1899年に初版の出た本書は、1913年(大正2年)に岩野泡鳴によって訳されて、非常な反響を巻き起したらしい。こんにちから見ればおそろしく読みにくい訳だが、この本のいったい何がそれほどまで当時の人々を動かしのか。泡鳴訳を読み続けるのは苦痛なので、冨…
訳者の解説によれば、ハネカーという人はアメリカ人で、若くしてパリに渡り、当時のヨーロッパの文芸や音楽を深く学んだ。帰国後はその体験を活かして、評論を書きまくったらしい。しかし、生前の名声とは裏腹に、死後は急速に忘れられた。私が今回、この翻…
井村君江さんとの出会いは、おそらくこの狷介孤高といわれた詩人の老年を美しく暖かいものにしたんだろう。若くて才能があり、自分の世界に共感を示してくれる女性なんてそうそういるものではない。井村さんが現れたおかげで、詩人はだいぶ「命が延びた」ん…
これはすばらしい本だ。おかげさまで私にも日本象徴詩の流れがなんとなく理解できた。400ページに近い本だが、一読の、いや再読三読の価値はじゅうぶんある(2005年、翰林書房)。私の理解したかぎりでの、その流れは、下記のごときもの。 新体詩抄(近代詩…