象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

はじめに


象徴派、象徴主義というのは、私の人生における重大事件であって、これなくしては、ほとんどアイデンティティそのものが揺らいでしまうのだが、他の人にはなかなか分ってもらえないだろう。

といっても、ここで「象徴主義とは何か」というような、大上段にかまえた話をしようというわけではない。というのも、「象徴主義とは何か」という問いに対して、はっきりした回答を出した人はこれまで皆無のようだからだ。えらい先生方が答えられない問題に、私が答えられるはずがない。けっきょくのところ、「象徴主義とは象徴主義である」という同一律に回帰するのが関の山だ。

まあ、そういった問題もおいおい考えていくとして、今回は私がこの派の芸術に興味をもったそもそもの発端を語ろう。

私は小学生のころから詩というものがまったく分らなかった。読んだからといってとくにおもしろいわけでもない、外見上は行分けにされた短い言葉の連なりであるところのものが、いったいどういう意図で作られ、どういうふうに読むべきものなのか、だれもちゃんとは教えてくれなかった。

いちばんいけないのは、詩を説明して「つよい感動を簡潔なことばでいいあらわしたもの」と述べているものだ。あながち間違いとはいえないが、中途半端に当っているだけに、子供に偏った固定観念を与えやすい。この説明にあてはまる詩はむしろ例外であり、しかもあまり価値の高くないものが多いような気がする。

というわけで、行分け散文と詩との違いが分らないまま中学生になって、中三のときに買って読んだのが岩波文庫の『ヴェルレエヌ詩集』(鈴木信太郎訳)だった。

ここで、なんでヴェルレーヌか、ということになると、また長くなるから省略するとして、この詩集によって初めて私は詩というもののおもしろさを知ったのである。

こういう場合の「わかる」という感覚は、言葉では表しにくい。なんべん読んでも分らなかったものが、ある日突然「意味」をもって迫ってくるというふしぎ。いままで自分とは関係のない、遠いところで語られているように思われた詩句が、急に自分の心の深いところで共振を始めたような感覚。そしてその共振は、一種の内的な共感となり、さらにある気分の喚起へと至る。

私がヴェルレーヌの詩から得た最大のものは、「詩というものの目的は、読み手の心にある気分を喚起することである」ということを、実作をもって示されたことだ。そして、この気分の喚起というのは、知的分析的なものではなく、感覚的総合的なものであるという点で、音楽の与える印象に非常に近いのである。


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この詩集には、訳者の鈴木信太郎によるすばらしい「解説」がついている。ヴェルレーヌの詩が詩一般への扉を開いてくれたとすれば、この「解説」は、とくに象徴派への道案内になっている点が私にはありがたかった。これによって、鈴木信太郎は私にとって象徴派の導師となったのである。