象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

上田敏と堀口大学


鈴木信太郎には上田敏という先達がいる。この上田敏という人が、訳詩においていかに影響力が大きかったかは、当時の本を調べてみればわかる。

その一つの例として、矢野目源一マラルメの「牧神の午後」を訳したものをあげよう。かれの詩集『光の処女』の巻末に収められたこの訳詩は、上田敏の美学を通して眺められたマラルメであり、それをランビキにかけていっそう洗練されたものに仕上げたのが鈴木信太郎であることは、その二つの訳詩を読み比べてみれば一目瞭然だ。

おおナンフよ。さまざまの「追憶(オモヒデ)」に胸ふくらさむ。
『わが眼の光、蘆のひまよりなべての女神の頸(ウナジ)を射れば、
彼等森の空へと立ちのぼる怒りの叫びをはり上げて、
視線の傷手を波に浸しぬ。あな、阿古屋珠、
たまゆらにおのゝき消えし丈長髪の水浴みの燦やかしさ。
……
(矢野目訳)

ああ 水波女(ナンフ)ら、くさぐさの《思出》に いざ胸を満てむ。
《わが眼、蘆生(アシフ)の茎ごしに、忘れがたなき襟足を
《凝視に射れば、その項は 森の空高く雄哮(オタケビ)の
《怒をあげて 青波に 焔ゆる火傷(イタデ)を罧(フシヅ)けにす。
《かくて、金髪の燦ける川水浴は 光明と
《戦慄(オノノキ)の中に 消え返る、おお 阿古屋珠。
《……
(鈴木訳)


こんなふうに、訳詩がたんに横のものを縦にするだけに留まらず、それがもうひとつの「創作」であるような、手の込んだ工芸品めいたものになったのは、まったく上田敏の功績であって、これはのちに弊害が出てくるまで、長く明治・大正の詩壇を支配した。

ところで、その弊害とは何かといえば、このやり方が象徴詩に特有のみずみずしさを損なってしまうことで、もともとは高踏派の荘重体を訳すために編み出された上田敏の訳詩の方法が、そのままでは象徴詩には適用できないことが徐々に明らかになってきたのだ。

そして、その重苦しい空気を詩壇から一掃したのが、清新な魅力をたたえた堀口大学の『月下の一群』であったことは、だいたい文学史が教えるとおりだ。

上田敏自身、『海潮音』における荘重体が象徴詩には不向きなことを自覚して、『牧羊神』ではもっと平明な、俗にくだけた訳文を採用している。しかし、かれの才筆をもってしても、象徴詩の真骨頂を日本語に移すことはできなかったようだ。それはなぜかといえば、おそらく上田敏が、象徴詩というものを、あまりよく分っていなかったためであろうと思われる。

かれが書いた「象徴詩釈義」は、マラルメの一ソネットをとりあげて、象徴詩の味わい方を説いたものだが、かれはここで象徴と寓意とをごっちゃにしている。もちろん、両者は区別がむつかしい場合もあるが、象徴というものを何か固定した約束事の下に置いてみるのは、いかなる場合も避けなければならない。それをやってしまうと、象徴が象徴でなくなってしまうからだ。上田敏は、この論稿で、かれがいかに象徴詩というものが分っていないかをさらけ出してしまっている。

そして、上田敏のあとを受けたかにみえる堀口大学も、じつのところそれほど象徴詩に執着があったわけではないことは、その訳詩をみればわかる。かれはけっきょくのところ、当時の新しい文芸のひとつとして、象徴派の詩も取り扱ったというだけのことで、その真の関心はほかのところにある。それは、海外文芸の最新の動きをいかにして迅速に日本に紹介するか、というジャーナリスティックなもので、ひとつひとつの象徴詩をじっくり味わっている暇は、たぶん彼にはなかっただろう。

しかし、紆余曲折を経ながらも、いちおう日本にも象徴主義、象徴派というものは成立したかにみえる。では、ル・サンボリスム・ジャポネとはいったいどういうもので、どういう人々や作品から成っていたのか。これは私にとっても大問題なのだが、いますぐ答えは出せない。

まあ急ぐことはないので、ゆっくり時間をかけて考えてみたい。