『六人集と毒の園』再読
象徴主義といえば、詩や絵画が中心で、小説はあまりぱっとしないようだ。象徴主義小説というので、なんとなく人々が思い出すのは、ロダンバックの『死都ブリュージュ』くらいではないか。有名なユイスマンスの『さかしま』は、象徴派を広く一般に知らしめたという功績はあるものの、それ自体が象徴主義の小説というわけではない。ヴィリエ・ド・リラダンの『残酷物語』や『トリビュラ・ボノメ』も、部分的に象徴的手法が使われていないわけではないが、全体としてみればやはり象徴主義とはいいがたい。
そこでふと思い出したのは、昇曙夢が明治大正の交に訳した『六人集』と『毒の園』という二冊の翻訳書のことだ。私の買ったのは、これらを合本にして一冊にした『六人集と毒の園』という本で、巻末に文壇の諸家による「感想録」なるものがついている。
もう十年以上も前に読んで、ほとんど記憶に残っていないので、新著を読むつもりで再読してみた。以下、簡単に梗概をしるす。
* * *
『六人集』(明治43年刊行)
コンスタンチン・バリモント「夜の叫び」
好きな女を捨て、好きでもない女と結婚し、できた子供が夭折する。自身は列車事故で両脚を切断する。監獄のような病院で、夜ごと、赤ん坊の泣き声のような叫びに悩まされる。つらつら来し方を追憶。すべてに諦めがつく。生ける屍。そんな彼とは無関係に動いてゆく外界の活気。
ボリス・ザイツェフ「静かな曙」
妻をなくした男が、旧友と再会する。旧友は体を毀している。いっしょに住む。追憶と観察。死の影。旧友死ぬ。野辺の送り。後日譚。郊外の別荘での若者や子供との遭遇。田舎へ引っ込んでからの、自分の孤児を眺めながらの思索。
クープリン「閑人」
自分の住む田舎町の醜聞を集め、手帳に記入し、それを関係者に匿名で密告することに楽しみを覚えている、退官した老人の話。社会的な成功者である彼は、おのれの行為に一点のやましさも感じていない。それどころか善行を施しているつもり。しかし、「我も亦淫婦の涙を灑がん」と口癖のように唱える彼は、自己欺瞞に陥っているのだろうか?
ソログープ「かくれんぼ」
幼い娘とかくれんぼ遊びに興じる若い妻。夫は理知的な、冷ややかな男で、夫婦仲はわるくないが冷えている。女中たちが、かくれんぼ遊びはよくない、という。隠れて隠れて、隠れ死んでしまうというのだ。それをきいた妻の不安、そして恐怖。やがて娘は熱病で死ぬ。妻の錯乱、発狂。
アルツイバーシェフ「妻」
情熱的な恋人時代とは打って変って、味気ない新婚生活を送っている男女。女は子供ができたことを告げる。子供のために自由を失うことを恐れる男は女と別れる。気ままな生活。三年後、男は妻の家を訪問する。妻には情夫ができている。男はそれを許し、子供の養育費の継続も約束する。とりあえずの和解。結語、嫉妬と自愛とを克服することが真の自由である。
アンドレーエフ「霧」
霧の深い一日。少年は性病に罹った体を持て余している。父は物置で拾った春画を息子が描いたんじゃないかと疑っている。少年は夏をすごした別荘のことを思い出す。それから好きなカーチャという娘のことも。父は少年に例の春画を見せて詰問する。少年は自分が描いたと認める。父の絶望。その晩、家で催された宴会を避けて、少年は夜の街に出る。偶然知り合った売春婦の家へ行く。諍い。売春婦をナイフでめった刺しにして殺害する。
『毒の園』(明治45年刊行)
ソログープ「毒の園」
学生の住む下宿屋の裏にみえるふしぎな花園。それは本草学者のもので、彼には美しい娘がいる。学生はその娘に恋する。娘は学生に、自分はある奴隷の末裔で、祖先の復讐のため、代々アンチャルの毒で養われる身であることを明かす。花園は毒の園で、彼女を愛することは、毒で死ぬことなのだ。学生は愛による死を選ぶ。娘も学生の腕の中で死ぬ。
アンドレーエフ「地下室」
酒におぼれて死を待つばかりの男の住む、地下の住居。そこには社会の底辺の人々が暮している。ここで亡くなった女を、赤ん坊を産んだばかりの、その乳姉妹が訪ねてくる。赤ん坊を前にした、人々の喜び。男もその喜びに浸りながら、やがてくる死を心静かに待っている。
アルツイバーシェフ「夜」
大晦日の夜。宿直の医者。外は嵐。メランコリー。赤ん坊の泣き声。隣の病んだ女の産んだ子。看護婦と小使が部屋にくる。過去の追憶。恵まれた環境で暮らしてきたがゆえの現実感のなさ。窓から見る外界に立ちこめる死の気配。医者は骸骨の模型を弄ぶ。隣の病んだ街娼の生きんとする意志に呼応する憐憫の情。赤ん坊は生れ、外の嵐は静まる。明るい気分。新年の挨拶。
アナトリイ・カアメンスキー「白夜」
二人の遊歩者。一人は、完全な人間同士の交流が実現する未来を説く。もう一人はそんなことは不可能だという。そこで実験が行われる。見ず知らずの人の家に行って、相手がどう出るか、見ようというのだ。けっきょくは失敗。
トルストイ「三奇人」
三人の男がいっしょに住んでいる。一人は美術家。一人は作家。一人は「撞鐘者(かねつき)」と呼ばれる多芸な男。三人はネヴァの色街へ恋をしに出かける。黄色の帽子をかぶった女を射止めたのは撞鐘者。美術家はおもしろくなくて、だんだん自暴自棄になり、ついに家を飛び出す。撞鐘者は女を射止めたものの、妙な自意識に振り回されたあげく、肺病で死ぬ。三人はばらばらになってしまう。
バリモント「嫉妬」
語り手の学生のころの話。友人と、その恋人とが、語り手の故郷の田舎の家に泊ることになった。そこで奇妙な嫉妬の激発を起こした友人が、恋人を銃で撃ち殺しそうになる。語り手は友人と取っ組み合いをした末、ことなきを得た。そんなことがあってから、友人と恋人は結婚した。結婚後は、嫉妬は友人から妻へ移ったらしい。激しい嫉妬から静かな嫉妬へ。後者のほうがずっと危険である。
クープリン「生活の河」
旅籠屋を経営する、夫に死なれた主婦。身内は四人の子供と、情夫の陸軍予備中尉、それに門番など。ある晩大学生が泊りにくる。新思想の信奉者で、あるセクトの一員らしいが、すべてに絶望した彼はピストルで自殺する。旅籠屋ではひとしきり大騒ぎになったあと、警部と中尉と主婦とでみだりがわしい晩飯。
ザイツェフ「死」
瀕死の老人。かれは妻のほかに愛人があって、娘もいる。そのことを妻に話して、許してくれという。愛人と娘とも仲よくやってほしいという。妻は答えない。遠くにいる大学生の息子に手紙をやって、重篤を知らせてすぐに、老人は死ぬ。葬式。その後、墓地で妻はある少女と会う。夫の不義の娘である。妻は少女を抱いて、すべてを許そうという気になる。それから一週間後に妻は死んだ。
* * *
こうしてみると、どうも私の考える、そして一般にそう思われている象徴主義とは無縁の、どっちかといえばリアリズムに立脚した物語がほとんどを占めている。いかにもロシアらしい雰囲気は伝わってくるものの、これらを象徴主義の圏内に位置せしめるのは、たとえその周辺にまで範囲を広げても、かなりの無理があるといわねばならない。
しかしこれをもって、ロシアには象徴主義の小説が存在しないと見るのは早計も甚だしい。おそらく、私の知らない、日本にはまだ紹介されていない、象徴主義小説がきっとあると思う。私にはもうロシア語をやっている時間はないが、各国語による訳本や研究には気をつけておきたい。