アルベール=マリ・シュミット『象徴主義 -- マラルメからシュールレアリスムまで --』
1942年に刊行されたもの。邦訳は1969年(白水社、文庫クセジュ)。
これは象徴主義について手軽に要点のみ知りたいと思う人には、まったく役に立たない本だ。いや、ほんとうに、ここには象徴主義について、積極的なことは何一つ書かれていない。著者は、象徴主義に関係のある何人かの作家について、その文学的肖像(多分に著者の好みによって歪曲されている)を描き出すことによって、間接的に象徴主義を浮び上らせようとする。それは一種の否定神学であって、ネガとポジとが反転した、残像のようなものとして、一瞬視野をかすめるだけで、諦視しようと思ったときにはもう煙のように消えている。
アマゾンのレヴューでは、訳文が日本語の体をなしていない、とぼろくそに貶してある。しかし、もとがフランス語なんだから、ちゃんとした日本語になっていなくても、大目に見なければならない。それに、私にとっては、こういうラフな訳文のほうが、原文が透けてみえるだけ、ありがたいのである。この前ローデンバッハの訳でお世話になった窪田氏は、ここでもいい仕事をしている。巻末の略歴をみると、この人には「日本の象徴詩人」という著書もあるらしい。これはぜひとも披見したい。
さて、以下に本書の要約を作ってみる。すでに読んだ人にも、未読の人にも、役立つものであることを願いつつ。
第一章:先駆者たち
彼こそはまごうかたなき真個の象徴主義者である。
感覚所与を「象徴」とみなし、その背後にある「観念」を示すのが詩人の役割。宇宙創造と詩的創造との間には照応がある。創造の根源としての「絶対=虚無」。
「自然」を「創造」の敵対者とみて、対立の姿勢を貫くこと。
詩作による絶対の探求という、不可能の夢を最後まで諦めなかった文学者。
反抗者の姿勢。
「創造主」は神秘的な「言」であり、単一である。そこから「自然」の多様性が流出する。「見者」は自然の多様性を初源の本質へと還元する。言葉の錬金術。最終目標は、現象世界の破壊および見者自身の消滅。
西欧の没落は、東方的な観想生活を取り入れたことによる。観想から活動へ。
ランボーの影響は1885年あたりから。
III ポール・ヴェルレーヌ
彼は「あらゆるものの不純な混合物」である。
ランボーとの出会いで真の才能が開花。
マラルメとは別の意味で、真個の詩人。
芸術の敵、すなわち教養ある俗物の典型であるトリビュラ・ボノメ博士を創造した。
ヴィリエの手法は反語。
* * *
第二章:頽廃の精神
I J. K. ユイスマンスの『さかしま』
1880年ごろに現れた「頽廃の精神」の証言がユイスマンスの『さかしま』。
主人公の夢想に糧を与える芸術家、モローやルドンなど。
音楽を夢の建造物に取り込むこと。ワーグナーへの関心。
読書においては古典主義を避け、バロック的なものを好む。
デ・ゼッサントの幻影実験室。
II ジュール・ラフォルグ
「頽廃の精神」の第一人者。
彼の用語の多様性、俗語から新造語まで。形式的にはあらゆる様式の混合、しかしわざとらしさはない。
内気な人間の感性。妹への愛。ドイツ哲学。
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I 諸理論
1884年に『さかしま』、1885年に『アドレ・フルペットの頽廃』
1886年にルネ・ギルの『ことば論』、ステファヌ・マラルメの『前言』、ジャン・モレアスの『サンボリスム宣言』
「交感」のボードレールは別格。先駆者としてマラルメ、ヴェルレーヌをあげる。
「自然」は感覚を通じて人間に働きかけるが、感覚とは観念の表徴、秘義にほかならぬ。感覚を相互に結合させ、そこから言葉による総合すなわち象徴を形成するのが詩人の役割。この一節(p.62)は重要。
言葉の意味よりも音を重視すること。
サンボリスト以上に文学的な流派はなかった。マラルメの提言、「この世のいっさいは書物となるために存在する」
II 自由詩
ヴェルレーヌの「詩法」から自由詩が生まれる。
自由詩の形式の根幹をなすのは詩節。
詩の愛好者にはあまり評判がよくなかった。
III サンボリスムの教義の困難
文学者と大衆との間の乖離。
作者の側の霊感の枯渇を、偽の霊感源(諸宗教の歴史、中世学者の出版物、秘義神秘学)で補った、贋物の象徴主義の抬頭。
IV 忠実な「サンボリスト」たち
不可避的に訪れる象徴主義の俗化。それを免れた、三人のサンボリスト。ギュスターヴ・カーン、ヴィエレ=グリファン、スチュアート・メリル。
彼らはいずれも傑出した自由詩の書き手。
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第四章:忠実でないサンボリストたち
I ジャン・モレアスとルネ・ギル
ベルギー人のギルは象徴主義を離れ、主観的な現実の代りに、客観的な科学の成果を詩に入れようとする。
ギリシア人のモレアスの象徴は、じつは手の込んだ暗喩である。
彼はサンボリスムを捨てて、「ロマン語派」という新しい流派をつくる。
II アンリ・ド・レニエ
自分の気に入ったものだけを楽しむ人。
彼がサンボリスムから得たものは、彼がもとから持っていたもの。
彼はサンボリスムから離れていくが、その痕跡はいつまでも残る。
III エミール・ヴェルハーラン
サンボリスムから離れることで、健康を取り戻した人。
サンボリスムから抜け出して、彼は激昂へと向かう。自由詩から雄弁調へ。
彼は弁論家になり、群衆を相手にする。ただし、サンボリスムの残り香は呪いのように最後まで彼を離れなかった。
IV アンドレ・ジイド
ジイドは倫理においてサンボリストである。
サンボリスムから離れたのち、彼の「自己放棄」は「待命」に変形する。
反主知主義を推進。
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第五章:サンボリスムの演劇
I 前提にある困難
サンボリストの演劇は宗教性を要求する。
屹立する老魔術師ヴァーグナーと、イプセンの大いなる影。
ヴィリエの『アクセル』の位置。
二、三の例外を除き、サンボリストは劇芸術ではほとんど成功していない。
II モーリス・メーテルリンク
メーテルリンクの演劇の静的性格。
真実は「不可視の世界」にしかない。可視的なものは、「不可視のもの=魂」の象徴であるかぎりにおいて、意味をなす。
III ポール・クローデル
サンボリスムとミスティックとの結びつき。
サンボリスム時代の代表作は、『黄金の頭』と『都』
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結論
I サンボリスム文学に対する関心の存続
サンボリスムには多方面から関心が寄せられていて、それは今日まで存続している。
II フランシス・ジャム
サンボリスムへの反抗
ジャムは形式においてサンボリストである。
III シャルル・ペギー
彼は自由詩の長い節を用いた。
ペギーは神の偉業の「象徴学」においてサンボリストである。
IV ギヨーム・アポリネール
V ポール・ヴァレリー、ジャン・コクトー、ダダイスムとシュールレアリスム
ヴァレリーは規則の教示においてサンボリストである。
ダダイズムは激昂においてサンボリスムである。
コクトーはその断罪においてサンボリストである。
シュルレアリスムは無意識においてサンボリスムである。
VI 概括的な結論
4人の先駆者たち
頽廃の代表、ユイスマンスとラフォルグ
自由詩の創案
サンボリスムからの離脱者たち
象徴劇の困難さ
サンボリスムのその後の影響
現代の後継者、レーモン・クーノー、ジャック・プレヴェール