象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

窪田般彌『詩と象徴』


1977年に刊行されたもの(白水社)。

本書で扱われているのは、「広い意味での象徴主義的風土に生きた文学者」たちである。広義の象徴派といってもいいだろう。

まず蒲原有明。この人の『有明集』は最低限読んでおかないと、日本の象徴主義について語ることはできない。というわけで、目下精読中だが、どうも有明さん、雰囲気がどよーんと暗いんですよね。そこへいくと、当時並び称せられたという、薄田泣菫は明るい。どっちが好きかといわれれば泣菫だが、しかし泣菫の詩は象徴詩と呼ぶにはちょっと無理がある。

次は岩野泡鳴。この人は評論や翻訳で、当時(明治40年ごろ)の象徴詩熱を煽りに煽ったらしい。生れながらの煽動家であり、その影響は昭和の小林秀雄中原中也河上徹太郎にまで及んでいる。

次は大手拓次。窪田氏のエッセイには、原子朗氏の『大手拓次研究』という本が大きな影を落しているが、これは文句なしにすばらしい本だ。もう一度読み返してみたい一冊。

次は永井荷風荷風アンリ・ド・レニエとは、顔つきがなんとなく似ている。どっちもあまり好きな顔ではない。しかし、顔が嫌いだから読まないというのはあんまりなので、窪田氏の訳した『生きている過去』や『ヴェネツィア風物誌』あたりから手をつけてみよう。

次は萩原朔太郎。朔太郎は詩だけでなく、詩論もかなり書いている。読むべし。

日夏耿之介はとばして、次は中原中也。詩人としての中也にはあまり関心がもてないが、彼の訳したランボーを最近読んで、ひどく感心した。彼の手にかかると、ランボーがれっきとした象徴詩人にみえてくる。これは一種の魔術だ。

次は富永太郎小林秀雄。どっちも、いまの私にはどうでもいい存在だ。かれらはたぶん広義の象徴派からも離れている。

次は森有正。この人も象徴派とは無縁だが、リルケを介することで、遡行的に象徴派に結びつけることは可能だろう。とはいっても、そんなこととは関係なく、森有正は私にとって大切な思想家であり、文学者だ。

金子光晴安西冬衛、吉田一穂、このあたりはなんとなく私にも親しめそうだが、つづく西脇順三郎瀧口修造がいけない。象徴派の未来形だか何だか知らないが、ここまでくるともう私の読解能力を超えている。ひとは語りえぬものについては沈黙せねばならぬ。理解しえぬものについても同断であろう。

本書の末尾に並んだ三つのエッセイは、訳詩をテーマにしている。つまり、『新体詩抄』と、上田敏の『牧羊神』、それに鴎外の『於母影』など。日本の詩は、もとはといえば訳詩から始まっているので、そういったものを見直すことは、つねにすでに必要なのである。温故知新のつもりで、再顧すべし。