象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

日夏耿之介『美の遍路』


『黒衣聖母』の詩人の処女作は意外にも戯曲で、男を漁って一夜の歓楽を尽したのち、翌朝には殺して古井戸に投げ込む残酷なお姫様を主人公にしている。舞台は江戸時代の吉田御守殿で、天樹院尼公の性癖や科白がワイルドのサロメを彷彿させるところに妙味がある。

耿之介は若いころからサロメに熱中し、最晩年にいたるまで訳文に手を入れていたというから、一生をサロメに憑かれて過ごしたようなものだ。そういう彼が、処女作にこういうものを書いているのは、ある意味でじつに首尾一貫しているといえる。

「わたしの胸が快楽の泉なら、そちの胸はそれを吸ふ快楽の海綿ぢや。わたしの泉を吸つて吸つて吸ひ採りつくすことが出来たなら、そちの生命が天命を数へつくす限りわたしはそちと一緒に生きもし死にもしませう。……さア、その男らしい、力強い小腕でこの女子を抱きよせておくれ」(『美の遍路』)

「ほんに、そちは、この、わが身をばよう睜てはくれなんだ。わたしを能う睜てくれたなら、可愛(イトシ)う思うてくれた筈ぢや。……今でも、約翰よ、そちを可愛う思うてをる。そちだけを可愛う思うてをるのぢや」(『サロメ』)


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さて、話は変るが、岩波文庫に新訳の『マラルメ詩集』が加わり、鈴木信太郎の『マラルメ詩集』が絶版になってしまったのは、時代の趨勢ということもあるが、私にはじつに痛恨の極みである。そこに収められていた玉石混淆の訳詩のうちでも、至宝とも称すべき奇蹟の訳詩「エロディヤード」が読めなくなってしまったのは、惜しみても余りあることだった。

日夏の『美の遍路』と『院曲サロメ』、そしてマラルメの『エロディヤード』、これらはサロメをめぐる変奏曲というだけでなく、魔性の女性による古風な科白回しのおもしろさを堪能させてくれるという意味でも貴重なものなのである。