象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

北原白秋と三木露風


わが国の象徴詩の歴史においては、有明の次にくるのが白秋と露風だ。このふたりは並び称せられ、いわゆる白露時代を打ち樹てた。

私はだいぶ前に露風の四冊の詩集*1にざっと目をとおし、小ぎれいにまとまってはいるが中身のない詩だな、という感想をもった。で、今回、白秋の代表作『邪宗門』を通読して意外に思ったのは、白秋という人が、私の期待していたほど卓れた詩人ではないという事実だった。露風よりもさらに私には遠い詩人だ。

白秋は、私の印象では、詩壇の耆宿的存在で、白秋といえば居住いを正さねばならず、白秋門下といえば無条件で畏敬の対象となる、というような感じをもっていた。しかし、『邪宗門』を読んだかぎりでいえば、近代詩人としてそれほど高い位置にいるわけでもないことがわかる。いろんな意味で中途半端なのだ。

露風の詩が、外形ばかり整って内からこみあげてくる圧力が感じられないのとうらはらに、白秋は内からの圧力がつよすぎて、外形の秩序を破っている。下世話にいえば、身も蓋もない、というのが白秋の詩の与える印象だ。巻頭の詩「邪宗門秘曲」だけは例外的にすばらしいが、あれを超える詩篇がひとつとして巻中に見えないのである。

彼の第二詩集『思い出』はまだぱらぱらと眺めただけだが、この時期にはもう象徴詩としての外形を取り繕おうという気持が完全になくなっているのがわかる。ひたすら自分の資質に忠実に、内心の情緒をぶちまけたようなところがあって、それはそれで興味はあるが、詩的に高いものではないし、私の目下の興味からも外れている。

いずれにせよ、今回白秋を読んだことで、逆説的に露風のよさが分るようになってきた。日夏耿之介が『明治大正詩史』で的確に述べているように、白秋の象徴詩には発展の余地はないが、露風の象徴詩のほうは、それ自体は挫折したとはいえ、真摯なる後進のためには有益な道を示唆していたのである。

というわけで、象徴詩という観点から眺めれば、白秋対露風の対決は、露風に軍配が上がりそうだ。

*1:『廃園』『寂しき曙』『白き手の猟人』『幻の田園』