象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

漢詩と象徴詩


漢詩を楽しんでいる日本人はどのくらいいるのだろうか。1パーセントを切っているのは確実だろう。ことによったら、0.1パーセントすら危ういかもしれぬ。

というわけで、あまり人気のない漢詩だが、ときどきこれは、と思うようなのがないわけではない。最近、象徴派の文献を漁っていてたまたま知った阿藤伯海、この明治生れの漢詩人が、私にとって特別な存在になりつつある。

手始めに読んだのは、定金恒次氏の書いた『阿藤伯海の世界』という本だった(岡山文庫 316)。これは評伝というのか、評論的伝記であって、ところどころに伯海の詩が読み下し文つきで紹介されている。誤字脱字が散見するのは除けば、読みやすい良書だといえる。

この本に頻繁に引用されているのが、清岡卓行の『詩礼伝家』という本だ。これは、おそらく伯海について書かれたもののうちでは筆頭に置かれるべきものだろう。

ところで、伯海自身の著作として何があるかといえば、主だったものは一冊しかない。それは『大簡詩草』と題された、漢詩集なのである。没後の1970年に私家版として出されたもので、昔ながらの漢籍の体裁をとり、仮名は一字も使われていない。じつにストイックな、見るからにすっきりした本だ。

この本を開いて、二、三ページづつ目を通してみる。するとふしぎなことに、読めない、むつかしい字が頻出するにもかかわらず、そこになにか一種のポエジーが漂うのにはっきり気づく。

このなんとも定義のしようのない、漠然とした「気分」を醸成しているのは、漢詩という「形式」のなせるわざだろうか。それとも作者の個人的な資質によるものか。いずれにせよ、この本を眺めていると、日本人にとっての漢詩の愉しみとは、訓読して意味をとることよりもむしろ、漢字の視覚的イメージをそのまま静的な絵として味わうことにあるのではないか、という気がしてくる。私はここで、漢詩とは読むものではなく眺めるものだ、という啓示を得た。

もちろん中国人にとっては漢詩は音読すべきもの、場合によっては楽器に合わせて歌うものであって、日本とはまったく事情が異なる。これを逆にいえば、同じ漢詩であっても、読み手が日本人か、中国人かによって、その詩は質的に別のものになってしまうのだ。中国人にとっては聴覚中心、日本人にとっては視覚中心、といったぐあいに。


     * * *


私は象徴詩を理解する一助として、自分でも詩をいくつか作ってみたが、そのとき気づいたことがある。それは、

1.象徴は仮面であること
2.象徴はサブリミナル効果をもたらすこと

このふたつだ。

1.についていえば、象徴詩の作者は、自己の感情や思想をありのままには表現しない。ありのまま、つまり素顔で表現するのではなく、仮面をかぶって表現する。三島由紀夫の本の題名を借りれば、「仮面の告白」ということになる。なんだかずるい、男らしくないやり方だと思われるかもしれないが、仮面をかぶってしかできない告白というものがあるのだ。つまり象徴という仮面をつけることにより、告白から個人性をはぎとって、普遍的なものへと転換するのである。

2.はどうかといえば、象徴詩における言葉は必ずしも明瞭な、一義的な意味をもたなくていいので、むしろそれらが意味の伝達ではなく、呪文のように読み手の潜在意識を直撃する場合にこそ真価を発揮する。語られている事柄ではなく、語りそのもののうちにサブリミナル効果の潜んでいることが、すぐれた象徴詩の指標なのである。

例として適当かどうかわからないが、大手拓次の短い詩をあげておこう。


しろきうを
かさなりて 死せり


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以上、長々と書いたが、まとめてみると、日本人が漢詩を書くということは、それだけで象徴詩の領域に入りこんでしまうことを意味する。なぜなら漢詩は、

1.ふだんの言葉とはかけ離れた表記を使うこと、つまり仮面をかぶること
2.漢字の視覚的イメージにより意味とは別次元のサブリミナル効果を発揮すること

このふたつの点で、象徴詩に限りなく近づくからだ。

こういう漢詩象徴詩とをつなぐ地点に位置しているのが、私のイメージする阿藤伯海なのである。