象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

永井荷風『珊瑚集』


大正2年に出た本で、私の読んだのは、そのうちの訳詩だけ独立させた岩波文庫のもの。

本書については、ネットにおもしろい論文が出ている。著者の佐道さんにはいつもながら教えられるところが多い。


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わが国の象徴詩の歴史において、本書はどのような役割を果たしたのだろうか。おそらく、その敷居をかなり低くしたのではないかと思う。つまり、ここに集められた、あまり冴えない詩のサンプルをみて、なるほどこれくらいなら自分にも書けるんじゃないか、と当時の詩人志望者たちに勇気を与えたのがこの本ではないかと思うのである。

そしてこれが重要な点だが、ここに集められた詩は、象徴詩風ではあるものの、純粋な見地からはっきり象徴詩であると認められるものが皆無なのだ。象徴という仮面をはがしてみれば、可憐な抒情詩でしかないようなものがことさらに集めてある。それは、どんな凡庸な詩人でも、象徴という道具立てを援用すれば、いちおうは見られる詩が書けるんだよ、という、荷風の無言の激励なのである。

そんなら、つまらない詩が巷にあふれるんじゃないか、という心配が出てくるが、じっさい大正詩壇はつまらない詩のオンパレードである。おびただしい数にのぼるそれらへっぽこ詩集から、その上澄みだけがいくらか残って、今日まで読み継がれている。その筆頭が、萩原朔太郎だ。

そして、もうひとつ重要な点をあげれば、それらつまらない詩がほんとうにつまらないか、というと、いちがいにそうとばかりもいえないのである。象徴詩風をひっぺがしてみたときに、そこにあらわになる大正詩人たちの抒情には、やはり時代からくる品のいい香りが漂っている。

『珊瑚集』は、そういう大正時代における二流詩、三流詩に道を拓いたという点で、やはり画期的な訳詩集といえるのではないか、というのが私の感想だ。


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本書に収められたレニエの詩「仏蘭西の小都会」のなかに、「疏水の水の音遥に聞え」という詩句がある。荷風はこの疏水にアンクリューズというルビをふっているが、これはおかしい。というのも、フランス語にはアンクリューズなんて言葉はないのだ。レニエの使っているのはエクリューズ(écluse)という字で、ふつうは水門と訳される。水門という無粋な言葉のかわりに疏水という粋な訳語を充てたのは荷風一流の見識だと思うが、それだけにまちがったルビがいまだに正されないままになっているのが残念だ。