象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

斎藤磯雄『近代フランス詩集』

その刊行年(1954年)からもわかるように、本書は日本の詩壇の趨勢と同時代的に関わるものではなく、もっぱら訳者の個人的な嗜好によって趣味的に生み出されたものだ。まあ、詩集というのは本来そうあるべきもので、いたずらに時流と切り結ぶことのみをもって存在に意義あらしめるのは邪道なのである。

とはいうものの、私のように象徴派に関心のあるものにとっては、やはりそういう面から眺めてみたいという気持は抑えがたく、巻末に集められた、象徴派世代に属するマイナー・ポエットたちの「折ふしの歌」にこそ、本書の最大の美点を認めたいと思うのである。

じっさい、本書は三人の閨秀によって締め括られている。すなわち、Rosemonde Gérard(エドモン・ロスタン夫人)、Anna de Noailles(ノアイユ伯爵夫人)、Gérard d'Houville(エレディアの娘にしてアンリ・ド・レニエ夫人)。才色兼備というにふさわしいこの三人の佳什を味わえるだけでも本書を読む価値はじゅうぶんある。しかし私がほんとうに感心したのは、アルベエル・サマンの「薄暮」だ。長い詩なので、全篇の引用はやめておくが、その末尾の二節だけ書き写しておこう。


悉く眼に浮ぶかな、往時の「たをやめ」のむれ、
ゆくりなき夢のまにまにかりそめの衣裳をまとひ、
ほのぼのと光うすれし遥かなる書割のなか、
黄昏の水波精のごと、ゆるやかに舞ひつ旋りつ。

(……)

われは聴く……さはあれ、やをら、褐色にたゆたふ水面、
城門にさも似て懸る大いなる架橋の方に、
夢の舟、今は世に亡き女人らの睡眠を載せて、
過ぎし日の馨のうへを、闇の夜に遠ざかりゆく。……


どうです、すばらしいではありませんか。訳者のことをわるくいう人もいるが(たとえば生田耕作のごとき)、そしてじっさいこの本のなかにもつまらない詩は少なくないのだが、いいところだけ眺めれば、今日でもじゅうぶんに読むに耐える名詩集だと思う。