象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

吉田健一『ラフォルグ抄』


これはすばらしい本だ。私はこれを読んでラフォルグに対する考え方がすっかり変ってしまった。

これまでは、ラフォルグといえばどうもあまりぱっとしない詩人という印象で、たいして人気があるようにはみえず、ラフォルグラフォルグといって持ち上げる人も見たことがない。たいていアンソロジーの片隅に申し訳なさそうに顔を出している人、というくらいの認識しかなかった。

しかし、意外なことに、日本では1980年ごろに『ラフォルグ全集』というのが3巻本で出ている。私が知らないだけで、前からけっこう人気があったのかもしれない。

それはともかくとして本書だが、まずひとついえるのは、吉田健一の翻訳がすばらしいことだ。吉田健一といば、あの読みにくいナマコみたいな文体が頭にあるので、どうかなと思っていたが、難解をもって鳴るラフォルグの文章をみごとな日本語に移している。

本書は『最後の詩』と『伝説的な道徳劇』、それに若干の付録と解題とからなっている。中心をなすのは『伝説的な道徳劇』で、ここに収められた短篇は、いずれも私のばくぜんと考えていた象徴主義小説の好個の見本となっている。

象徴主義小説といえば、ポーやヴィリエの流れを汲むいわゆるコント・ファンタスティック(綺譚)を思い浮べる人が多いと思うし、それはおそらく間違ってはいないが、それとはべつにこのラフォルグの短篇に代表されるような、ファーブル(寓話)もまた象徴主義の土壌が生んだ重要な小説の形式であると考える。

この綺譚と寓話とを、象徴主義小説を特徴づける二本の柱であるとするならば、一般的に象徴主義の小説というのでよく挙げられるユイスマンスの『さかしま』やローデンバッハの『死都ブリュージュ』などが象徴主義の本部から除外されるのは当然だろう。『さかしま』は写実主義の、『死都ブリュージュ』は耽美主義の産物にすぎない。

あとひとつ書いておくと、ラフォルグの寓話は象徴主義を超えて、さらに二十世紀のカフカを予告しているようなところがある。フローベールの「エロディアス」を下敷にしたとされる「サロメ」などは、カフカ的としかいえないような、不条理の領域にまで突入している。

というわけで、すばらしい作品であることは間違いないのだが、だからといってラフォルグが前より好きになったかといえば、微妙だ。続けて読んでみたいという気持はあるものの、さらに原文にまであたるだけの情熱は、残念ながら湧いてこない。まあ、ラフォルグのフランス語はちょっと厄介で、私などには手に負えなさそうなのも敬遠する一因だが。