中原中也訳『ランボオ詩集』
ランボー、ランボー、
アル中のランボー、
へんてこな やつ。
こんな替え歌(?)を作って喜んでいた子供のころの私よ……
ともあれ、小林秀雄のランボーは私を驚倒させた。私も小林とともに、ランボーという「事件」の渦中にしばらくいた。しかしその波は来たときと同様に、すみやかに去っていった。おそらく半年ほどしかもたなかったんじゃないかな、私のランボー熱は。
それから長年月を閲した今日、ふたたびランボーを読んでみようという気になって手に取ったのが、岩波文庫の『ランボオ詩集』である。訳者はあの中原中也。中也が和製のランボーであるかどうかは別としても、ちょっと気になる取り合わせではないだろうか。
で、読んでみた感想だが、誤訳が気になって作品に入り込めない、というのが正直なところだ。誤訳もひっくるめた中也の「創作」ということで大目に見ようという立場もあるだろうけど、私は無理だね。どうも気が散っていけない。
中也の訳文は、ときどき出てくる意味不明な語法を除くと、おおむね読みやすく親しみやすいもので、独特の味わいがある。それはランボーの詩を訳すのにうってつけの文体だ。それだけに、つまらない誤訳や、意味不明の語法が惜しまれてならない。それさえなければ、天衣無縫ともいいたい出来だったに違いないのに。
本書で私がすばらしいと思うのは、多くのランボー詩集では省かれているラテン語で書かれた「学校時代の詩」が収められていることで、ことに冒頭の「春であった」などは、象徴詩としてもかなりよくできた部類に属すると思われる。ネットにはピエール・ブリュネルという人の仏訳もあるが、中也の訳のほうがずっとすぐれている。
ちなみに、中也の名訳として人口に膾炙している詩句、
「季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える」
は、もともと小林秀雄がそう訳したのを、中也が勝手に拝借したもののようだ。宇佐美氏の「解説」にそのあたりの詳しい説明があるが、他人の手柄を平気で自分のものにする傍若無人さがランボー的でなかなかよい。