二葉亭四迷と象徴主義
ちょっとしたきっかけで、二葉亭四迷の全集を買ってしまった。新書版で二段組、全九巻という、省スペースのもの。
まだ目次をぱらぱら見た程度だが、じつにおもしろそうな作品が並んでいる。こういうものに今まで注意してこなかったのは迂闊だった。
さて、目次を見ていると、「露国の象徴派」という題名が目についた。おお、これは! と思ってさっそく読んでみると、雑誌の埋め草みたいなもので、やや拍子抜けがした。
とはいうものの、ルシアン・シンボリストなんていう言葉が出てくると、平静ではいられない。象徴主義はロシアへ行って、さてどんな発展を遂げたのであろうか。これについてはまったく知るところがないが、それだけに探求心をそそる。
まあその楽しみは先においておこう。
二葉亭が本稿で論じているのはメレシコーフスキーである。昨今ではメレシュコフスキーと表記されることが多いようだ。
「メレシコーフスキーが唱え出したシムボリズムと云うのは、氏にとっては新宗教なので、霊肉一致、換言すればクリスチャニティーとヒーズンとの一致──そこに氏独特の絶対境を見出さんとするのです」と二葉亭は書いている。はたしてこれは正しいか?
先へ行くと、「仏蘭西あたりのシムボリズムが、肉的であるに比して、露西亜のは非常に霊的であり、宗教的であります」とも書いている。これもはたして正しいか?
さらに先のほうに、こんなことが書いてある。
「霊肉の一致がシムボリズムの妙境ならば、低級ながら、却て世の俗人にシムボリストが多いようです。……低いながらに霊と肉とが一致した処があるようです。……西郷隆盛が評判のような人なら偉大なシムボリストといえましょう。……」
西郷隆盛が象徴派だというのは、ちょっと他所では見られない珍説だと思うが、それだけに二葉亭のシンボリズム理解は、失礼ながらあさっての方を向いているように思えてしかたがない。
最後に、二葉亭が「メレシコーフスキーの詩で最も世にもてはやされた」と紹介している What I was という詩だが、ネットで探しても見つからなかった。一世紀前にはもてはやされたものでも、今日ではだれも顧みないのだろうか。
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あと余談だが、思い立って象徴詩の和訳をアップする試みを始めた。ボケ防止くらいにはなるかもしれない。
とりあえずヴァン・レルベルグのものから始める。というのも、彼は私のいちばん好きな詩人だからで、「好きなものから始めろ」という古人の言に従ってみた。それと、日本ではあまり紹介されていないというのも理由としてある。
『アントルヴィジオン』から始めて『イヴの歌』、それからデーメルの『女と世界』、それに『けれども愛は』あたりまで攻めていければ、と思う。