象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

池内紀編訳『ウィーン世紀末文学選』


本書にいわゆる「世紀末」とは、1890年代からナチスドイツによるオーストリア併合(1938年)までを想定しているらしいが、これはちょっと下限を長く取りすぎているような気がする。そのせいかどうか、収録作品の選択もどこか散漫な感じで、全体として焦点がぼけているように思う。本書を通読しても、世紀末ウィーンの精髄をつかんだ、という実感のようなものは得られないだろう。

まあそれはそれとして、象徴主義の観点からみた場合、ベーア=ホフマンの「ある夢の記憶」がもっともすぐれている。これと、ホフマンスタールの「バッソンピエール公綺譚」を除けば、他の作品は象徴主義とは無縁の短篇ばかりだ。もちろん、だからといって作品としての価値が下がるわけではないけれども。

さて、そのベーア=ホフマンの作品だが、私がこういうものをおもしろく思うのも、象徴主義に対する興味が根底にあるからで、もしそうでなければ、退屈でつまらない作品だと思ってしまったかもしれない。じっさい、ここにはロマネスクの要素はほとんどない。この作品の持ち味はまったく別のところにある。筋書のおもしろさから限りなく離れたところで、世紀末ウィーンの雰囲気を、というよりも、象徴主義のひとつの局面を同時代的にとらえることに成功しているのだ。われわれはここに絵画における分離派や、音楽における無調派と同じ種類の芸術的営為を感じ取ることができるだろう。

「ある夢の記憶」というのは秀逸な題名で、それは主人公がみた「ある夢」の追求であると同時に、この短篇自体が、集合的無意識におけるひとつの夢の記録のような性質をもっている。変な話だが、私はこの作品を読みながら、かつて読んだ同じような話をいくつも思い出していた。それはたとえばザイツェフの「静かな曙」であり、夏目漱石の「倫敦塔」であり、ヴィリエ・ド・リラダンの「思い違うな!」であり、ローデンバッハの「死都ブリュージュ」であり、ジェラール・ド・ネルヴァルの「シルヴィ」である。

象徴主義小説は、国や時代を超えて、ひとつの連環をなしている、という(おそらく間違っているけれども魅力的な)考えを助長するような作品であった。