石川淳と象徴派
石川淳という作家は、はたして今でも読まれているのだろうか、という思いが頭をよぎる。どうも底が浅くて、すぐに飽きがくるような気がするのだ。本人はいっぱし文学の玄人のつもりで、文体もすばらしいが、かんじんの中身がすかすかなのである。
しかし、そんな彼の作品でも、私が非常に愛していて、何度も繰り返し読むものもある。『文学大概』と『夷斎座談』がそれだ。
彼は『文学大概』所収の「ヴァレリイ」という論稿のなかで『レ・デリケサンス』を引き合いに出している。といっても、ユイスマンスの『さかしま』と並べて書名を出しただけだが。そして次にアンドレ・バアルの大著『サンボリスム』に言及する。
どうも石川淳のサンボリスム理解は、このバアルの本に依拠しているようだ。
バアルはともかくとして、彼の「ヴァレリイ」と次の「マラルメ」を読んでみよう。
彼によれば、「象徴派の考え方は、時間を分離したところで、図形を複雑化させるのに役立った」ということだ。そしてさらに、「サンボリスムが一時的の文学運動ではなく、今日の詩が経過しなければならなかったところの煉獄的季節であり、それのもつ意味が詩の形式のみならず本質にふれている」ことにも触れている。
彼のいうところを少し抜き出してみよう。
「すくなくともサンボリスムに直接影響を及ぼしたものの一つとしてウァグネルを除外することはできぬ。それがやがて詩と音楽の融合をくわだてたマラルメの意図につづく」
「ヴィリエ・ド・リラダンの文章に早くもウァグネルの精髄を移そうとした跡を探すべきであろう」
「一つの特徴はサンボリスムのディオニゾス的性質であろう」
「サンボリスム研究とは当然マラルメ研究を含むものでなければならぬ」
「マラルメの詩は形式に於てことばを以てする音楽であり、内容に於て……ヘエゲル哲学の実現である」
「(ヴァレリイの)『テスト氏』の側からかえりみることはマラルメへの理解の契機となるであろう」
要するに、ヴァレリーの『テスト氏』から眺められた象徴主義の風景がある、というのが石川淳の主張なのである。これが正しいかどうか、そのうち検討してみよう。
彼の「マラルメ」は、読み物としてはおもしろいが、マラルメを理解するうえではあまり役に立たない。しかし、彼がこう書いているのは肯綮に中っている。
「マラルメを理解するためには、ひとはみずからフランス語に熟達し、詩に通暁し、サンボリスムの史的由来を究明し、自分の頭脳をマラルメの詩世界の中に置いてみるがよい」
さて、私はといえば、マラルメを理解することはもう諦めてしまった。この内に爆弾をかかえた、うわべは静謐な、しかしどこまでもちぐはぐな一世界のなかで日々を暮すなんてまっぴらだ。マラルメ詩集も、その散文も、私の本棚から追放しよう。そしてマラルメ抜きの象徴派をわが安住の地としたい。