象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

ハンス・H・ホーフシュテッター『象徴主義と世紀末芸術』


1965年に原著が、1970年に訳書が出たもの(種村季弘訳、美術出版社)。訳者のあとがきによれば、当時は日本でもアール・ヌーヴォーがちょっとした流行だったらしい。著者のホーフシュテッターはアール・ヌーヴォーの研究家でもあるので、本書でもそっち方面の記述は少なくない。

私は若いころは象徴主義の領域に割り込んでくるアール・ヌーヴォーが嫌いで、あんな女子供の慰みものは断固として真正の象徴主義から遠ざけるべきだ、と思い込んでいた。しかし、月日がたち、真正の象徴主義なるものの輪郭がますますおぼろになっていく中で、かつては毛嫌いしていたアール・ヌーヴォーにもそれなりの価値と魅力とを認めないわけにはいかなくなった。半世紀もかかって、ようやっとホーフシュテッターの立っていた場所にたどりついたというわけだ。

今になって顧みると、本書は象徴主義を囲い込むのではなく、より広い文脈に向けてそれを解放する試みだったことが知れる。その目的のために、著者は象徴主義を他の流れに開いていく際の魔法の蝶番を次々に開示する。

それらの蝶番のなかには、古びてしまってうまく機能しないものもあるが、世紀末芸術という分野ではもはや従来の常識を覆すような、画期的な学説というのは出てきようがないので、本書の内容を知っていればたいていの場合用が足りるだろう。

それに、本書の真骨頂は、個々の蝶番の有用性ではなく、象徴派の風土から眺められた各時代、各流派の作品の展望にある。ここでは中世末期、マニエリスム、ロマン派、現代美術の画家たちが、象徴主義を仲立ちとして輪舞を踊っているのだ。

こういう探求に欠かせないのが「現物を見る」ということだが、現物ならぬ複製でがまんするとしても、かつては画集や図録というものを大量に買い込む必要があった。ところが、昨今ではネットの画像検索というものがあって、これで目指すものの大半が手に入る。なんという恵まれた時代にわれわれは生きていることか。

本書をガイドにして、ネット上で架空の美術館めぐりができる。それがどれほど楽しいことかは、やったものにしかわからない。



さて、美術的なこととはべつに、私が本書に期待していたのは、現代の映画(といってもブニュエルフェリーニベルイマンあたりだが)に対して象徴主義がどのような関係をもっているか、ということだった。しかしこの点に関しては、なんとなく匂わすのみで、はっきりしたことは書かれていない。おそらくそういったことは、本書を読み終えた各人が独自に探究すべきことなのだろう。

いちおう映画に言及されている個所をいくつか抜書しておく。

「わたしたちの時代のサンボリスムの今日性をさらに明白に語るものに映画がある。ヴァディム、フェリーニブニュエルは、近年いちじるしくサンボリスム的性格を帯びた映画を制作したし、ほかならぬ映画の世界に十九世紀のサンボリスム精神が登場していることは、二、三の例について容易に示すことができよう。十九世紀サンボリスム芸術の様式手段さえもが映画のなかにその正統の継承を見出したのである」(p.21)

「映画の駆使しているあまたの可能性のなかでは、フェリーニの「甘い生活」を想い起すにとどめていただきたい。すでにビキニ娘がパイロットにウィンクしているあいだにヘリコプターでキリストを運搬するという<発端>が、かけはなれた種類の要素をまとめていることによって象徴性をおびるのである。同じ映画からもうひとつ例を挙げると、シュタイナーが小鳥の声を録音にとるくだりがある。鳥の声は森の自然の環境から美学者のサロンに移植されるのだ──ユイスマンスがそのデ・ゼッサントの身辺にめぐらしたのとほとんど同質のデカダンス象徴。自然と生命への連繋をうしなってしまったシュタイナーは、事実、自殺をおかすまでにいたる」(pp.111 - 113)

「映画にとっても様式のおきかえは、自然主義的おきかえと同様、現実性(リアリティ)の背後に肉薄する主要な可能性をかたちづくっているが、この種の映画はそのために正当に理解されにくい。たとえば最近ではベルイマンの映画「沈黙」にたいして、批評のなかで何度ととなく、様式化された場面や象徴的な映像が<突如としてまったくリアリスティックな日常的場面>と並存しているのは様式の破産にほかならない、と述べられたものである。ありようは反対である。この対比を通じてこそリアリスティックな場面がその現実性(リアリティ)を止揚する文脈のなかに移されるのだから。芸術であれ、映画であれ──肝腎なのはいつも同じ問題である。すなわち対比(コントラスト)はこれまで意図されてきた秩序の構造を破壊して、これを新しい洞察にむかって、これまで見落されてきた内容にむかって、透明たらしめることなのである」(pp.119 - 120)

「さまざまの奔放なグラフィック連作が同一の主題をめぐって回転する。すなわち、<この世のすべての苦悩>の指数である、人間的なるもののぎりぎりの周辺にある人間たちという主題だ。ゴヤの「カプリチョス」と「戦争の災害」、ゲネーリの「ある放蕩者の生涯」、「ある魔女の生涯」、「ある芸術家の生涯」、レーテルの「死の舞踏」、クリンガーの「手袋」、「イヴと未来」、「ある愛」、マゼレールの「時の本」、「ある人間の情熱」、「年齢」、マックス・エルンストの「百頭女」、「慈善週間」、レエルプの「ドリアン・グレイの鏡」──ごく大ざっぱに伝統の輪郭を描けば以上の如くであり、これは究極のところもっとも正統を継ぐものとして映画に受けつがれてゆく」(pp.158 - 159)