象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

芥川龍之介と象徴主義


先日、初めて閃輝暗点なるものを体験した。視界の端にギザギザの円が見える現象だが、それで思い出したのは、作家の芥川龍之介が短篇「歯車」のなかで、この現象を描いていることだ。彼にとって閃輝暗点はたんなる病理的現象ではなく、「死」を暗示する予兆のようなものだった。



この「歯車」を含む、芥川の晩年の諸作が私は大好きなのだが、どうもそれらには象徴主義と一脈相通じるものがあるような気がする。たとえば、未定稿ではあるが「夢」なんかはどうだろうか。これは死の直前まで作者が手を入れて完成させようとしていたもので、文字通りの絶筆なのだ。

「夢」にはヴァリアントとして「人を殺したかしら?」という、これまた未定稿がある。今回この二つを読み比べてみたが、増補版である後者のほうが出来はよくない。枝葉の記述や後日譚が作品の強度を弱めている。本筋だけを簡潔に述べた「夢」のほうが、未完成な部分も含めてすぐれている。

この短篇は、夢遊病の傾向のある画家が、モデルの女性を無意識のうちに殺してしまったのではないか、と自問するといった内容で、姿を消してしまった女性の安否をたずねて彼女の下宿を訪れるという、その行為までもがかつて夢のなかでみたできごとではないか、という疑惑に陥るというもの。ここでは夢が入れ子になっていて、そこにボルヘス的な一種の無限を垣間見ることもできる。

ヴァリアントのほうには、「或シネマの雑誌を読みかけたまま、わたしはいつかうとうと寝入ってしまった」という文があるが、夢遊病者による殺人ということからすれば、もしかしたら『カリガリ博士』からの影響もあるのかもしれない。彼はどこかの映画館でこの映画をたしかに見ているのだ。

主人公の画家は、モデルの女性の肉体に終始圧迫を感じている。そしてこの女性は、胞衣に興味をもったり、乳首がだんだん大きくなったりしているところから、どうやら妊娠しているようである。生命力のある、旺盛なものに対する反撥と魅惑──はたして彼はモデルの帰ったあと、ゴーガンの画集をひろげ、タヒチの絵に見入るのである。

というわけで、このドイツ表現派の影響を受けた、ボルヘスふうの寓話には、彼を象徴主義の圏内に引き入れるだけのものがあるような気がする。この圏内には、もちろん「歯車」や「蜃気楼」や「或阿呆の一生」、さらには「誘惑」や「浅草公園」も含まれてくるだろう。