象徴派の周囲

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ドビュッシー『ペレアスとメリザンド』


音楽における象徴主義というのはどうも捉えどころがない。他のジャンルであれば、たとえば文学ならマラルメ、美術ならクノップフ、というように、なんとなく象徴主義の代表のようなものが思う浮ぶけれども、音楽となるとなかなかこれというのがない。いや、ひとつだけある。これこそは音楽における象徴主義の金字塔と呼べるような作品が、ただひとつだけあるのだ。

それはいうまでもなくドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』だが、この作品について諸家が述べているものを読んでみても、私を完全に納得させるようなものはこれまでなかった。いや、それよりもまずこのオペラそのものが、どうも私には納得のいかないものとして、目の前に立ちはだかっている。私の理解と愛好とを阻むものが、この作品にはあるのだ。

この状態を打開すべく、メーテルリンクの戯曲と、音楽之友社の名曲解説ライブラリーとを参照しながら、このオペラを精聴(?)してみることにした。盤は長年親しんできたクリュイタンスのもの。



そこでまず気づいたのは、私の鑑賞のしかたが根本的に誤っていたことだ。私は音楽というものは漠然と聞き流しているうちにその真髄がおのずから感得されるものだという思い込みがあって、それは必ずしもまちがっているわけではないが、しかしそういう聴き方をしていたのではいつまでたっても妙味がわからない種類の楽曲がある。このペレアスなどはその典型だろう。いや、ペレアスだけでなく、ワーグナー以降のオペラには多少ともその傾向がある。この手の音楽に対しては下準備と知識とが不可欠なのである。

そのようにして聴いてみると、この作品にはドビュッシーが他の作品で使っているさまざまな楽想があちこちに散りばめられているのがわかってくる。そしてそれらの楽想が、矛盾対立を止揚したうえで、ドビュッシーの世界観をひとつの巨大な作品としてパノラマのように展開しているのが見えてくる。それは絵でいえばギュスターヴ・モローの未完の大作『キマイラ』を彷彿させるもので、しかもその全体を統べているのは、ビザンチン風とでもいうしかない、ある静謐の印象なのである。



作中におけるゴローの嫉妬と憤怒、またペレアスの純朴と優柔不断、メリザンドの諦念と絶望、そういった人間的な情念のあれやこれやも、劇の表層に浮び出た仮象にすぎない。その背後には絶対的な「無」が深々とした闇を広げている。そういう一種の無常観をあらわしたものとして、これはやはり異色のオペラであり、象徴主義的風土以外のところでは生れえなかった珍品であろうというのが私の今回得た印象だ。

いくつか気になった点をあげておけば、まずドビュッシーもその扱いに苦労したという老王アルケル。この人物はすでに世俗の王を超えて宗教者の域に達している。彼の歌唱がお経に似ているのは偶然ではないのである。それからゴローの息子のイニョルドだが、私は彼に道化(クラウン)の面影を見たい。イニョルドはいつも場を活気づけるとともに、そのあり方が一種の郷愁をもたらすところの、両義的存在なのだ。山口昌男なら私の意見に賛成してくれるだろう。

最後に、上に言及した音楽之友社の本だが、私を新たな見方(聴き方)へと導いてくれたペレアスの項の執筆者は平島正郎氏であった。かつて愛読した氏の『ドビュッシー』(「大音楽家/人と作品」)、それに太田黒元雄が1932年に第一書房から出した『ドビュッシー』、この二冊を久しぶりに読み直してみて、若かったころの感興をふたたび味わった。

あと蛇足を付け加えておくと、ドビュッシー愛好家がぜったいに手を出してはいけない本が二冊ある。それはほかならぬドビュッシー自身が書いた本(『ドビュッシー音楽論集』として岩波文庫から出ている)と、青柳いづみこさんの『ドビュッシー 想念のエクトプラズム』とである。私はこの二冊を読んで、ドビュッシーに対する関心を急速に失ってしまった。そして二度と元の状態に戻ることはなかったことを思うと、ずいぶんその罪は重いわけだ。