象徴派の周囲

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ふたつの『イット』

アール・デコ文学双書」の第二回配本『イット』(エリナ・グリン 松本恵子訳)を読む。「イット」の持主である男女(男は無一文から身を起こした実業家、女は没落貴族の令嬢)の恋愛をめぐる心理的駆け引きを中心にした物語。風俗はいちおう1920年代のそれだが、これといった事件が起らないのと、ジョン・ガントが嫌味な人物なので、作品としては地味な感じになっている。初版は1927年とのこと。

さて、この作品は同年に映画化されているが、クララ・ボウ主演のその映画を見ると、小説とはまったく違っている。男が実業家なのはいっしょだが、彼には「イット」はない。いっぽうの女のほうは労働者階級の売子で、彼女の発散する強烈な「イット」が映画全体を引っ張っていく仕掛になっている。



筋は映画のほうが波乱万丈で、小説よりもずっとおもしろい。主役のベティ・ルー(クララ・ボウ)をはじめ登場人物がすべてコミカルで、見る喜びをたっぷりと味わわせてくれる。そしてこの映画にはエリナ・グリンその人までもがスペシャルゲストで出演しているのだ。最後のシーンで、「イット」を持たない人々のことを、IT-less 略して ITS と呼んでいるのもおもしろかった。

しいて小説のほうの肩をもてば、こちらはその設定から一種の階級闘争、性的闘争の相貌を帯びている。そして、こういった古くてしかも普遍的なテーマが、この小説を19世紀的、世紀末的なものに近しくしているのだ。ここにはイプセンの「人形の家」やストリンドベリの「令嬢ジュリー」、さらにはボードレールの「決闘」にまで遡りうる男女両性間のアンタゴニズムが見て取れる。「イット」の持主同士のカップルには、どうもあまり楽しい未来は展けていないようなのだ。

最後に、「アール・デコ文学双書」について書いておけば、この『イット』が出たきりで頓挫してしまったらしい。予告にはいろいろとおもしろそうな題名が並んでいるだけに残念だ。ただ、おもしろそうな、というのは一種の罠であって、たぶんじっさいに読んでみると、そんなにおもしろくはないだろう、という予感がある。この手の本は、おもしろいかどうかよりも、雰囲気を楽しめるかどうかのほうが大切なのだ。そのことを承知のうえなら、探求の手を延ばしてみるのもいいだろう。、