象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

パイプについて

最近本格的にパイプ喫煙を復活させてみたが、なるほどこれは老人ならではの趣味だな、と思った。というのも、まずパイプというのは若い者には絵的に似合わない。それにパイプ喫煙特有のゆるさは、若者の求めるガツンとくる刺戟からは程遠い。またコレクション的な楽しみ方ができるというのも老年向きだろう。

というわけで、われわれ老人はシガレットなど見向きもせずにパイプに就くべきなのだが、どうもあまり流行っているという感じもしない。なによりもまず、パイプを扱っている店がどんどん減っていく一方なのだ。私の若いころは、近所の商店街にもパイプやシガーを扱う専門店があった。「よしとみ」という名前の、夫婦でやっている小さい店で、私はここで初めてパイプを買い、吸い方も教えてもらったのだった。

もっとも、一方ではネットにおける情報の充実には驚くべきものがある。そして品揃えもまたネットでの通販という形で以前とは比べ物にならないくらい選択の幅も広くなった。

ところで、今回パイプ喫煙を復活させた直接のきっかけは、昔の映画をいくつも見るうちに、俳優が優雅にパイプを燻らせている場面を目にして、自分でもやってみたくなったのである。ことに「ハックルベリー・フィンの冒険」のなかでハック少年がポケットにいつもパイプをしのばせているのが私には印象的だった。



映画でもわかるように、1930年代の欧米ではまだまだパイプが幅を利かせていた。その前の、いわゆる両大戦間の時代、その前のベルエポック、さらにその前の象徴派や新象徴派の世代にももちろんパイプ愛好者はいた。しかし、パイプを扱った詩文のたぐいはけっして多くはない。逆にいえば、ことさら詩文のネタに採り上げる必要がないくらい、それは一般的、大衆的な楽しみだったのだろう。

パイプの詩ということでよく引かれるのがボードレールの「パイプ」だが、これはちょっとした座興のような詩であって、たいしたものではない。それよりもむしろマラルメ散文詩を見てみよう。原文はめんどくさいが、翻訳でならすぐに読める。

まず作者は、ふとパイプを見付け出したとたんに、「紙巻(シガレット)はたちまちに、日向の青い木の葉、軽羅の衣が、光を与えている過去の中に、真夏の子供らしいあらゆる喜びもろ共に、投げ棄てられた」と書いている。ここでひとつのポイントとして、シガレットを蔑視してパイプを尊重する姿勢を指摘することができる。

次に注目すべきは、「一心に仕事に没入するため、気持が紊されずに長く煙草を吸おうという至極真面目な心掛けの男だ」という一文である。ここで作者は長時間にわたる喫煙を称讃しているのである。

その次に注目すべきは、「一息深く吸うが早いか」という一節だ。これはつまるところ、マラルメがパイプを口腔ではなく肺で喫煙していたことを物語る。肺による長時間の喫煙──これがいかなる結果をもたらすか。後年マラルメが烈しい息切れと咽頭痙攣の発作によって56歳を一期として逝ったのは、このことと無縁であったかどうか。

さて、詩の続きだが、このあと話はパイプからまったく離れてしまい、あたかもプルーストにおけるプチットマドレーヌ体験のごとく、作者が前年に渡っていたロンドンでの思い出があれこれと書き連ねてある。

つまるところ、マラルメの「パイプ」という散文詩は、むしろ「ロンドンの思い出」とでも題された方がよかったような作品であり、われわれパイプ党(!)にはあまりありがたいものではないのだ。

マラルメと比べれば、わが国における偉大なるパイプ党の一人である由良君美のパイプ礼賛のほうがはるかに熱がこもっている。

「パイプとわたし」と題されたエッセイがそれだが、ここでもやはりマラルメと同じく、シガレットに対するパイプの優位が説かれている。どうもパイプ党というのは、シガレット党を見下す権利とともに義務をも負っているのではないか、そんな気がする。

由良はパイプの吸い方について、「肺の呼吸をとめ、腹のリズムにたよりながら」と書いている。「腹のリズム」というのはよくわからないが、少なくとも彼が肺喫煙をしていないことだけは明らかだ。とはいうものの、彼は続けて「ボウルの底まで、残りなく灰に化する法悦と抑制と忍耐」について語っている。最後のひとかけらに至るまで、煙草葉を燃やしつくす──これがどういう結果をもたらすか。彼の死因はどうやら喉頭癌のようなのだ。

いずれにせよ、パイプによる長距離走と完全燃焼とを称揚する由良のエッセイは、その熱度においてマラルメをはるかに凌駕する。『言語文化のフロンティア』という本に収められているから、興味のある方はどうぞ。