象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

石川淳『おまへの敵はおまへだ』


だいぶ前に読みかけて、その台詞廻しのあまりのわざとらしさに辟易し、ずっと積読になっていたもの。それを今回わざわざ取り出して読んでみたのは、このところ古い日本の映画をずっと見てきて、その雰囲気の延長線上にあると思しいこの作品のことがふと頭に浮んだからだ。1961年の作だから、それほど古いというわけではない。しかしここには小津安二郎溝口健二を思わせる何かがそこはかとなく揺曳しているのではないか、そう思って手に取った。

読み終っての感想をひとことでいえば、つまらない作品だ。他の人はどう思っているのかと気になってネットで調べてみたが、何も出てこない。どうやらだれからも相手にされなくなっているらしい。なんということだろう、石川淳といえば、一時的にせよ私のヒーローのひとりだったというのに。

まあ、これほど無視されている作品なら、私がここで何を書いても大丈夫だろう。というわけで、象徴派の観点から本作を眺めてみると──

まず題名の「おまへの敵はおまへだ」だが、これは作者があるときふとフランス語で ton ennemi, c'est toi という言葉を思い浮かべ、それをそのまま芝居の題名にしたとのことだ。まあそれもあるとは思うが、私がここで思い出すのは、オクターヴ・ミルボーの「事業は事業だ」という芝居である。これは望月百合子さんの訳で昭和の初めごろ日本に紹介されていると思うが、石川淳の芝居が事業をひとつのテーマにしていることを思うと、ここにミルボーの影がさしていると見るのもあながち牽強付会ではないだろう。

ミルボーは象徴派の世代に属する作家で、メーテルリンクをいちはやく認めたことでも知られている。

石川淳は象徴派には早々に見切りをつけ、NRF一派、ことにアンドレ・ジッドを追っかけることで文学的出発をしたということになっているらしいが、意外にも後々まで象徴主義的風土を引きずっている。無頼派を気取ろうと、シュルレアリスムに韜晦しようと、彼の根っこにあるものがアナトール・フランス以下の象徴派のめんめんであったことはおそらく否定しがたいだろう。

この作品の登場人物は、石川淳の読者ならお馴染みのものばかりだ。魔に憑かれた探求者という設定の渡太平、ブルジョワ権力を代表する井戸勘蔵、悪漢もしくは道化としての梶原梶太郎、など。こういう人々の織り成す芝居はだいたい予想がつくし、竜頭蛇尾に終るのもいつもの展開だ。しかしこの作品において私がおもしろく思うのは、「歌ふ女」を登場させたことである。この物狂いのような女を登場させることで、この作品は能にインスパイアされた洋物、たとえばイェーツの「鷹の井戸」のような詩情を漂わせることに成功している。


飛ぶクラゲは歌ふわたくし
光るわたくしはめくらのクラゲ
クラゲよおまへはわたくしの鏡
このわたくしはクラゲの鏡
わたくしよクラゲよ
おまへの友は……
おまへの敵は……
おまへの敵はおまへだ


このフィオナ・マクレオドを思わせる歌を挿入することで、作者はおのれと象徴派との深い絆を無意識のうちに再確認していたのかもしれない。