井筒俊彦の本を読んでいると、繰り返しあらわれる、ひとつの思考パターンがあることに気づく。それをひとことでいえば、「真相は深層にあり」ということになるだろう。「いっぺん死んでよみがえれ」といってもいい。深層にたどりつくには死ななければならないし、そこで真相をつかんだなら、それをもってもう一度浮上、蘇生しなければならない。古来神秘道の達人たちはみなそうしてきた、と彼はいう。そして、そういう表層と深層との往還という見地から、東洋思想(ギリシャ思想も含む)を広く見渡してみよう、というのが彼の思索のおきまりのコースなのだ。
それは結局のところ、広い意味での神秘思想ということになるだろう。そして、私はこれをひそかに象徴主義の哲学的屋台骨と見なしたい。少なくとも、こういう観点から眺めて初めて見えてくる象徴主義的地平というものがあると思う。そのことをこの人の著作から教わったような気がしている。
じっさいこの人は、西脇順三郎に師事したというだけあって、詩には造詣が深い。「ギリシアの自然神秘主義」の第七章などは、ギリシャ抒情詩の一風変った詞華集としても読める。「意識と本質」では松尾芭蕉やマラルメが採り上げられる。このあたりからそろそろ象徴主義に近づいてくる。そして、イスラム哲学を論じつつ、スーフィー的なペルシャ詩人の作品を「象徴詩」と規定し、一見したところただの恋愛詩にしか見えないものにまで神秘主義を見出そうとする(「スーフィズムと言語哲学」)。まったくもって魅力的な観点ではないだろうか。
おかげで私の象徴主義探求は、ペルシャ文学にまで及ぶことになってしまった。まあその前に、彼の訳した「コーラン」だけは読んでおく必要があるだろう。それからペルシャ文学の入り口たる「ルバイヤート」も、ついでに。
そうだ、ひとつ思い出したが、ヴァン・レルベルグの詩篇「Rayonnements」などは、彼の説く言語アーラヤ識と種子(しゅうじ)との関係を念頭に浮べながら読むと、また格別の味わいがあるように思われる。かつて「曙光」と題して訳したものがあって、いま見るとお恥ずかしいような出来だが、「人もすなる象徴詩といふものを」というブログに載せてある。これもそのうち訳しなおしたい。