象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

「D.G.ロセッティ作品集」


岩波文庫の一冊。短篇やソネット、それに長詩などを収めた選集で、ふやけたような文語訳を別とすれば全体的によくできている。短篇では「林檎の谷」がよかった。これは象徴派に先駆けた象徴主義小説の小さい見本として立派に通用するだろう。

ロゼッティ(本書ではロセッティとなっているが、正しくはロゼッティだろう)のソネットのおもしろさは、アレゴリーの世界がシンボルの世界と微妙なバランスを取っているところにあるように思う。ロゼッティとしてははっきりシンボルの概念を念頭に置いていたわけではないと思うが、アレゴリーが無意識的にシンボルに傾いていく瞬間がところどころに見出されるのである。そういったところを味わうことができなければ、彼のソネットは捉えどころのない難解なものに映るかもしれない。

原文を見たわけではないが、訳詩として私がいちばん気に入ったのは、「絵画のためのソネット」中の「白日夢」というもの。行分けを無視して引用すると──

影なすシカモアの生い茂る枝には夏なかばにしていまだ若葉が萌える。
なお隠し得ぬ青空を背に駒鳥が黒々と止まった時から今まで、葉叢の奥深くに隠れた歌鶫の切迫した森の音色が夏の静寂(しじま)を貫いて舞い上がる。
いまだ葉は新たに萌える。
ただ、今まで春の芽から螺旋の舌を引き出してきた葉のようには、薔薇色の鞘に収まってはいない。


「夢想」の枝分かれする影のうちに夢もまた秋まで湧き出でるかも知れない。
だがそのいずれも精霊に煽がれた女の蕾萌ゆる白日夢のようではないだろう。
見よ! その眼差しほど深くはないが、深い空に向かって女は夢を見る。
今まで忘れられた本の上に忘れられた花がその手から落ちる。


付録としてウォルター・ペイターのロゼッティ論が収められている。ペイターらしい含蓄のある文章で、もちろん一読しただけではよく分らない。これがよく分るくらいにロゼッティを読み込んでみたいものだ。

私は明治時代の詩人たちの訳したロゼッティの難解さに手を焼いていたので、こういう親しみやすい訳書が岩波文庫から出たことを喜ばずにはいられない。彼はボードレールとは違った意味で、やはり象徴派の鼻祖と目されるだけの価値は十分あると思った。


小日向定次郎『ダンティ・ロゼッティの研究(地上の愛より天上の契りへ)』


大正14年に出た本で、小日向の本としては容易に手に入るものの一つ。"The Blessed Damozel" "The Staff and Scrip" "Sister Helen" の三篇の詩を訳出、解題している。

The Blessed Damozel はドビュッシーの名曲 La Damoiselle Elue のもとになった作品で、作者18歳のときのものだそうだ。ロゼッティは絵もよくしたが、この詩のあらわす情緒はむしろバーン・ジョーンズのものだろう。ラファエル前派には後のフランス象徴派よりもむしろ純化された象徴主義が顕著で、この北方的な要素はベルギー象徴派にもっともよく承け継がれている。ヴァン・レルベルグの「ソリアーヌ」などはロゼッティのこの詩とマラルメの「エロディアード」とを直接の霊感源としているように思われる。

The Staff and Scrip は十字軍時代に材をとった騎士道物語。こういうのは私にはちょっと苦手だ。アングロサクソンにはアーサー王伝説という詩文芸術の宝庫があって、これに汲んだ作品が無数にある。いずれも貴婦人や武辺の君が登場するもので、題材としては象徴派よりもロマン派との親近性が高い。ロマン派のこの手の詩文、たとえばコールリッジの「フビライ汗」にしても、エドガー・ポーの「タマレイン」にしても、いまひとつ象徴派とのつながりが見いだせない。

Sister Helen は三篇のなかでは異色作だ。姉と弟との対話体で、蝋人形を溶かして薄情な恋人を呪い殺す話である。しかしそういう殺伐とした題材を扱いながら、ここにはまぎれもないポエジーがある。一節一節がほとんど呪文のようだ。トリスタン物語以来の「愛と死」のテーマではなく、死そのものの種々相を神秘的に描いた諸作、たとえばイェーツの「心のゆくところ」、メーテルリンクの「闖入者」、ヴァン・レルベルグの「嗅ぎつける者」などにも影響を与えていそうな譚詩。

最後に、本書全体の特徴はといえば、なんといってもその枝葉の多さを挙げなければならない。本文の文法的解釈などはそっちのけで、むしろ詩句の背景をなす民俗学的な考証にその大部分が充てられているのだ。そういう横道を楽しむという意味では、やはり英文学の正統を踏んだ研究書なんだろうと思う。もちろんその学的水準の高低はこんにち問うところではないけれども。


石川淳『おまへの敵はおまへだ』


だいぶ前に読みかけて、その台詞廻しのあまりのわざとらしさに辟易し、ずっと積読になっていたもの。それを今回わざわざ取り出して読んでみたのは、このところ古い日本の映画をずっと見てきて、その雰囲気の延長線上にあると思しいこの作品のことがふと頭に浮んだからだ。1961年の作だから、それほど古いというわけではない。しかしここには小津安二郎溝口健二を思わせる何かがそこはかとなく揺曳しているのではないか、そう思って手に取った。

読み終っての感想をひとことでいえば、つまらない作品だ。他の人はどう思っているのかと気になってネットで調べてみたが、何も出てこない。どうやらだれからも相手にされなくなっているらしい。なんということだろう、石川淳といえば、一時的にせよ私のヒーローのひとりだったというのに。

まあ、これほど無視されている作品なら、私がここで何を書いても大丈夫だろう。というわけで、象徴派の観点から本作を眺めてみると──

まず題名の「おまへの敵はおまへだ」だが、これは作者があるときふとフランス語で ton ennemi, c'est toi という言葉を思い浮かべ、それをそのまま芝居の題名にしたとのことだ。まあそれもあるとは思うが、私がここで思い出すのは、オクターヴ・ミルボーの「事業は事業だ」という芝居である。これは望月百合子さんの訳で昭和の初めごろ日本に紹介されていると思うが、石川淳の芝居が事業をひとつのテーマにしていることを思うと、ここにミルボーの影がさしていると見るのもあながち牽強付会ではないだろう。

ミルボーは象徴派の世代に属する作家で、メーテルリンクをいちはやく認めたことでも知られている。

石川淳は象徴派には早々に見切りをつけ、NRF一派、ことにアンドレ・ジッドを追っかけることで文学的出発をしたということになっているらしいが、意外にも後々まで象徴主義的風土を引きずっている。無頼派を気取ろうと、シュルレアリスムに韜晦しようと、彼の根っこにあるものがアナトール・フランス以下の象徴派のめんめんであったことはおそらく否定しがたいだろう。

この作品の登場人物は、石川淳の読者ならお馴染みのものばかりだ。魔に憑かれた探求者という設定の渡太平、ブルジョワ権力を代表する井戸勘蔵、悪漢もしくは道化としての梶原梶太郎、など。こういう人々の織り成す芝居はだいたい予想がつくし、竜頭蛇尾に終るのもいつもの展開だ。しかしこの作品において私がおもしろく思うのは、「歌ふ女」を登場させたことである。この物狂いのような女を登場させることで、この作品は能にインスパイアされた洋物、たとえばイェーツの「鷹の井戸」のような詩情を漂わせることに成功している。


飛ぶクラゲは歌ふわたくし
光るわたくしはめくらのクラゲ
クラゲよおまへはわたくしの鏡
このわたくしはクラゲの鏡
わたくしよクラゲよ
おまへの友は……
おまへの敵は……
おまへの敵はおまへだ


このフィオナ・マクレオドを思わせる歌を挿入することで、作者はおのれと象徴派との深い絆を無意識のうちに再確認していたのかもしれない。

葉巻と南国の匂い


パイプ、手巻きと進んできたら、次に手を出すべきは葉巻(シガー)だ。これまではその見た目や価格からあまり惹かれることのなかった葉巻だが、やはり喫煙者としてはこれも押さえておく必要があるだろう。

というわけで、フィリピン産のエクスプローラーと、キューバ産のコイーバクラブ10というのを試してみた。どちらもドライシガーといわれるもので、一本売りしている本格的なシガーではない。初心者としてはこのあたりから手を付けるのが常道だ。エクスプローラーは太くて長く、いかにも葉巻を吸ってますという感じは出るのだが、味のほうはじゃっかん黒煙草臭がするな、というくらいのもので、べつになんとも思わなかった。まあ、葉巻とはこんなものか、という漠然とした満足感が得られただけだ。

ところが、コイーバのクラブ10を吸ったときは驚いた。見た目は細くて短く、あまり葉巻然とはしていないのだが、その味わいときたら……

これもやはり黒煙草臭はする。しかしそこに南国風のテイストが加わっている。私はこれを吸って、たちまちボードレールの詩を思い出した。ひとつは「交感」、もうひとつは「異国的の薫」だ。それぞれ大手拓二の訳でその一部を引用すれば──


それは子供の肉のやうに溌溂たる匂ひである、
笛の音のやうにこころよく、牧場のやうにみどりである、
そして腐れたるもの、ゆたかに誇揚するものは、

琥珀や麝香、安息香や、薫香のやうな、
無限のもののひろがりを持つて、
霊と官能との感激を歌っている。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

みいられるやうなこの季節にあたり、お前のにほひにみちびかれて、
わたしは、ぼうつとした海の景色につかれはてながら、
帆と帆柱とにみちた港をみる。

そのときに、空気のなかにとびめぐり、はなの孔いつぱいになる
みどり色の羅望子(タマリニエ)のにほひが、
わたしの霊魂のなかで水夫の祈と入りみだれる。


拓二の訳詩はほんとうにすばらしくて、そこでは誤訳さえもが魅惑に変ってしまうほどだが、私がここで残念に思うのは、誤訳ではなくて誤植だ。せっかく彼がタマリニエ(タマリンド)の訳語に「羅望子」という正しい字をもってきているのに、全集でも岩波文庫でも「羅望女」となっている。

まあそれはそれとして、こういう南国的な感覚を喚起するものが、コイーバの葉巻にはあるのだ。そしてその香りに加えて「霊と官能との感激」を助長するのが多量のニコチンとタールなのである。葉巻を咥えただけで唇にひりひりとした刺戟を感じる。そしてタールは圧倒的な苦みとなって喉を刺戟する。

これは明らかに体にわるい。しかしそうと知りつつやめられない、致命的な魅力がある。

高い金を払って体にわるいものを買い、しかも燃やし尽くした後には何も残らない。これほどばかげたものが世の中にあるだろうか。

私はコイーバを吸って、やはり葉巻はタバコの女王なのだと確信した。たとえその女王が男に身を滅ぼさせるような悪女だとしても。

煙草雑感


今回喫煙を再開してみて気づいたのは、公の場所で煙草を吸えるところがほとんどなくなっていることだ。6年前はこうではなかった。分煙は進んでいたけれどもまだまだ煙草を吸える場所はあった。それが今では……

私の場合、落ち着いて煙草を吸える場所といえば車の中か自宅しかない。そしてそれはそれでいいと思う。以前のように、いつでもどこでも煙草が吸えるというのが異常なのだ。まあ、そのユビキタス性が煙草をここまで普及させた一因であることは否めないが。

車の中や自宅で、人に見られることなく独りでこっそりと愉しむ喫煙、それはいうまでもなく delectatio morosa である。そしてこのラテン語が「そこばくの快楽」と訳されることからもわかるように、それは限りなく自慰行為に近づいていく。

そういう隠微なところから、いわば喫煙の頽廃的方面を探っていくと、私の記憶に浮んでくるのが「阿片窟」という言葉だ。子供のころ、シャーロック・ホームズの物語を読んだときに、この言葉が出てきて*1、一種異様な秘密めいた気持を味わった。原語では opium den というらしいが、「阿片窟」もしくは「opium den」で画像検索してみると、頽廃の極みのような画像がいっぱい出てくる。それは私には清朝末期のデカダンスを象徴的に表したもののように思われる。



これら阿片吸飲者たちの画像を見ていると、またしても私の記憶に浮んでくるのが、14世紀のデカダンス音楽といわれるアルス・スブティリオルの一曲「くすぶった男が(Fumeux fume)」である。作者はソラージュという人で、歌詞は細川哲士氏の訳によれば、


くすぶった男がくゆらせている、煙で煙った思案を。
他の者もその思いをくゆらせるがいい、くすぶった男がくゆらせている。
くすぶらせるのが男には楽しいからだ、そうしようと思っている限りは。
くすぶった男がくゆらせている、煙で煙った思案を。


コロンブス以前の14世紀という時代にすでに煙(阿片?)の吸飲が行われ、また精緻なポリフォニー音楽を生み出していたヨーロッパの文化的な高さには驚きを禁じえない。この曲はいろんな奏者が演奏しているが、個人的には最初に聴いたウエルガス・アンサンブルのものがいちばん気に入っている。



私も象徴派の端くれとして、喫煙を通じてこういう頽廃の系譜にみずからを位置づけたい、という気持を抑えることができずにいる。

*1:たぶん「アヘンくつ」表記で