象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

スフィンクスについて


アラビア語スフィンクスのことをアブールハウリというらしい。これは分解してみれば、アブー(父)とハウル(恐怖)とから成っていて、文字どおりには「恐怖の父」という意味になる(と思う、あまり自信はないが)。

これでみると、ムスリムたちはスフィンクスを男性と考えていたようだ。ナイル川のほとりに横たわるスフィンクスが、かれらにとってどういう存在だったのかは分らないが、われわれのようにスフィンクスといえばすぐに女怪を思い浮べるのとはだいぶ違ったイメージをもっていたことは確かだろう。

エジプトのピラミッドは古代ギリシャでも知られていて、世界の七不思議のひとつに数えられている。しかしピラミッドについて語ったヘロドトスも、スフィンクスについては何も書いていないらしい。それは当時これが砂に埋まっていて見えなかったからだといわれている。それでなければ、彼ほどの人がこれに言及しなかったはずはない。

いずれにしても、エジプトのスフィンクスを見たムスリムたちが、これに「恐怖の父」と名づけたところに、巨怪な造形物に対するかれらの畏怖の念が感じられて興味深い。

象徴派の画家や詩人にとっても、スフィンクスは並々ならぬ関心と同情との対象であり、かれらはそれを繰り返し画題としてとりあげた。モローやルドンやクノップフの絵がすぐに思い浮ぶが、それらとは趣を異にしたフランティセック・クプカの絵が、いまの私にはおもしろく思われる。クプカの絵に描かれたスフィンクスは、ギリシャ由来の女怪ではなく、エジプト由来の「恐怖の父」のそれだ。



詩文のほうで圧倒的なのは、ワイルドの長詩「スフィンクス」だろう。これは、自宅の居間と、古代ギリシャと、太古のエジプトとを三重写しにして展開する絵巻物のような作品で、最後にキリスト磔刑像があらわれて機械仕掛けの神のようにすべてをひっさらっていくというもの。

エドガー・ポーとアラビア的なもの


象徴派の守護神の一人である、アメリカのエドガー・ポーは、意外とアラビア的なものをその作品の風味として添えることが多い。そのことは前から薄々ながら気づいていたが、最近アラビア語を勉強するようになって、それがますます顕著に感じられるようになってきた。たとえば──

「唐草怪奇物語」と訳されることもある、彼の小説集「グロテスクとアラベスクの物語」。このグロテスクというのは、アラベスクと並記されていることころから考えても、ふつうにいわゆるグロではなくて、装飾模様としてのグロテスクであろうと思われる。その実例は、たとえば下記のサイトなどを参照してもらえればわかると思うが、アラベスクがひたすら植物的なのに対して、グロテスクはそこに動物の姿を図案化してあしらっているところに特徴があるように思う。

グロテスクの実例
https://grizly.club/uzor/ornament/12407-grotesk-ornament-47-foto.html

グロテスクにしろアラベスクにしろ、ベースになっているのは唐草模様であって、そこにはアラビア的な美学、もしくはアラビア的なものへの嗜好がはっきりと見てとれる。ただ、この書名に現れたアラビア趣味が、個々の作品にまで及んでいるかというと、そんなことはないようだ。基本的にポーの世界はゴシック美学が支配的なので、それはたとえば「アッシャー家の崩壊」の冒頭のあのすばらしい描写などに典型的に表れている。このポーのゴシック性が、彼を象徴派プロパーから遠ざけている。もし彼をむりやり象徴派の圏域に引きずり込もうとすれば、新たに「ゴシック的象徴主義」とでもいうものを規定しなければならないだろう。

さて次は詩篇「イズラフェル」を見てみよう。この詩は、冒頭に「コーラン」からの引用がエピグラフとして添えてあるが、こんな文句がほんとに「コーラン」にあるのかは疑わしい。目下「コーラン」を精読中なので、引用箇所を発見したらこちらで報告するつもり。いずれにしても、詩にイスラムの天使を出すというのはあまり例がなく、そういったものが好きな人間にはアピールするものがあると思う。ここにはまたフーリなる、イスラム世界独特の天女の姿も垣間見える。

次は少年時代の詩「アル・アーラーフ」。これはもう題名がもろにアラブ的だ。内容はそれほどでもないが、天文学者の王と呼ばれたティコ・ブラーエと、中世の天文学を壟断したイスラム世界とを「アル・アーラーフ」の一語に約めて示したのはすばらしい手際で、これがもしほかの題名だったら、まったく魅力を失っていただろう。内容よりも題名のほうがすばらしいというのは、はたして詩人にとって名誉なのかどうか、にわかには判断しがたいが……

同じく少年時代の作「タマレイン」もまた、イスラム世界の征服者ティムールを題材にしている。これはコールリッジの「クーブラー・カーン」を下敷にした可能性がある。邦訳ではだいたい「チムール大帝」となっているが、原題を英語読みにした「タマレイン」のほうがずっと響きも美しく、魂の奥底まで沁み込んでくるような魅惑がある。

最後に、フーゴー・シュタイナー=プラークの描いた挿絵をいくつか。



AL AARAAF



TAMERLANE



ISRAFEL

シュラミの女


デルヴァイユの「象徴詩」をぱらぱらめくっていると、ラフォルグの詩に Sulamites という言葉が出ているのを見つけた。これはなんだろう、と思って辞書を引くと、「シュラミの女」と説明があって、出所として雅歌があげてある。

そこで雅歌を調べてみると、たしかにあった! その6の13に「帰れ帰れシュラミの婦よ 帰れ帰れわれら汝を観んことをねがう」とある。

雅歌はなんべんも読んでいるのに、この箇所にはまったく気がつかなかった。というか、完全に素通りしていた。だいたいこの雅歌という作品は、だれが語っているのか、よく分らないのだ。官能的な言葉が並んでいるので、ついうかうかと読み過ごしてしまうが、話の筋(?)は不明のままで長年放置していた。

そこでネットをみると、世界じゅうの聖書をあつめたサイトがあった! こんなのはネット時代ならではの産物だろう。すごい、と思いつつ、適当に英語の聖書を見ると、雅歌の語り手をこと細かに表示してあって、なるほどと目からうろこが落ちた。そして、シュラミの女というのが、この作品の女の語り手、つまり女主人公であることもわかった。その相手は恋人ソロモンであり、べつにエルサレムの女子等の合唱が加わる。この三者がかわるがわる歌うことで、作品が成り立っているのだ。

それにしても、あらためて思うのは、どうしてこれが旧約聖書に入っているのかということ。どう見ても場違いとしか思えないのだ。この男女の相聞歌を信仰に結びつけることは可能なのだろうか。可能だとして、なぜここまで官能的である必要があるか。

それはともかくとして、この雅歌という作品は、象徴派とはけっこう相性がよくて、いろんな人がこれに想を得た作品を作っている。絵画の領域ではロゼッティやモローが、詩の領域ではヴァン・レルベルグなどがすぐに思いつくが、ほかにも探せば見つかるだろう。フォーレの合唱曲に「ラシーヌの雅歌」というのがあるが、これは聖書の雅歌とは関係がない。しかしこれも雅歌つながりでまとめておいてもいいかもしれない。

さて冒頭のラフォルグの詩だが、これは場末のカフェ・コンセールで調子っぱずれのピアノを叩きながら即興で歌われたような詩で、奇妙な魅力はあるが、それをここで伝えることはできない。ラフォルグは象徴派というよりむしろ頽唐派で、ランボーほど過激ではないが、適度にハチャメチャであり、なんとなくキートンを思わせるようなアクロバチックなところが、今後の興味につながりそうな気がしている。


ヴェルレーヌ「叡智」


長いこと読む気にならなかったのをようやっと通読。ヴェルレーヌのおかげで聖女テレーズの詩を読む気になったので、お返しに彼のものも読んでおかないと、という気持で手に取った(河上徹太郎訳)。

誤訳の数々に悩まされながら、からくも読み切ったが、どうもあまり感心しない。たしかにここには罪を悔いて涙を流しながら神に祈る詩人の姿が見てとれる。その誠意を疑うつもりはない。しかし、いったい詩人がどこまで本気なのか、それがはっきりしないのだ。どうも、苦境に陥ったから神に手を合わせているだけの、にわか信者のように見えてしまう。

彼はべつのところで(「呪われた詩人たち」)、「私は信仰し、そして行動によっても思想によっても罪を犯すのである」と書いている。これはどういうことかといえば、彼は信仰しているときは全人格をあげての信者であり、また放蕩しているときは、これも全人格をあげての蕩児なのだ。そのときどきで態度が180度変ってしまうので、どうもあまり信用する気になれないのである。

ランボーはこういったヴェルレーヌのにわか宗教性を「ロヨラばり」と呼んで軽蔑していた。見者ランボーからすれば当然だし、われわれ非見者からしてもそのように見える。

そんなわけで、「叡智」に集められた宗教詩は、霊性的な深みもなければ実存的な切実さもない作品群、という位置づけが私のなかにできてしまった。もちろん、宗教的ならざる他の諸篇は、いつものヴェルレーヌ節であり、芸術的にもすぐれていると思われるが。

そうそう、本詩集の最後のほうに、聖女テレーズに言及した詩があった。これを読むと、はたしてヴェルレーヌはこの聖女を手放しで讃美しているのかどうか、怪しくなってくる。それくらい皮肉たっぷりの、悪意に満ちた詩なのだ。ヴェルレーヌは序文で「この書の中には、カトリック教徒の繊細な耳を苛立てるような不協和音は何もない」と書いているけれども、私にはけっこう耳障り、目障りな詩篇であった。

異色といえば、なぜか本詩集にはカスパール・ハウザーを扱った詩(私はおとなしい孤児)が入っている。

最後に個人的な思い出を。

このヴェルレーヌという詩人は、私を詩の世界に引っぱり込んだ張本人なのである。鈴木信太郎の訳した岩波文庫。あれを繰り返し読むことで、それまで五里霧中だった詩の世界にようやっと参入することができたのだった。たぶん中二のころだったと思う。

そういういわれがあるので、ヴェルレーヌはある意味で「わが詩人」といえる存在なのだが、いつのころからか疎遠になってしまって、いまではあまり思い出すこともない。たまになにかのアンソロジーで読んでも、なんだか散漫な詩が多いような気がして、興が乗らないのだ。今回の「叡智」もイマイチだったし、今後も彼との関係が好転することはなさそうだ。

岩波文庫ヴェルレーヌ詩集。いま思えばあれは完璧なアンソロジーだった。その完璧さゆえに、原文を見ようという気にもならなかった。解説がまた輪をかけてすばらしかった。私が死んだら、棺桶のなかに入れてほしい一冊だ。

アビラの聖女テレサの「詩」


聖母文庫の一冊(高橋テレサ訳)に目を通してみた。なるほどこれはヴェルレーヌが持ち上げるだけのことはある。それはせつないほどの信仰心と、女性特有のやさしみとが混淆した、魂のメッセージのようなもの。形としては、神(イエス)に宛てて書かれた恋文のような体裁をとったのが多い。

しかし、残念なことに、その第一ページから躓いてしまった。というのは、私がぼんやり記憶していたテレサの詩、より正確にはひとつの詩句が、ここでは妙な具合に訳されているからだ。

その詩というのは、次のようなもの。


死の願いだけで私は生きている。
生が消える時にこそ
私の願望は遂げられる。
とこしえに我を伴いゆく死よ、
私は待ち侘びている。
死よ、ためらうことなく、急ぎ来れ、
──私は死ぬ、死なないために。


これは岩波文庫の「聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄」に出ているものだが、これが高橋さんの訳ではこのようになっている。


死ななければならないと信じ ただ死を望んで
私は生きています。
死に向かって生きることが
私の希望となっています
生から死へ そしてその死を
私は待ち望んでいるのです
私は死なないゆえに私は死にます


原文はたぶんこういうもの。


Sólo con la confianza
vivo de que he de morir,
porque muriendo, el vivir
me asegura mi esperanza.
Muerte do el vivir se alcanza,
no te tardes, que te espero,
que muero porque no muero.


「私は死ぬ、死なないために」というのは、じつに印象的な一句で、これだけでテレジアが好きになってしまったが、原文を見ると、はたしてこれは正確な訳であるかどうか、疑問に思えてくる。正確ということでいえば、おそらく高橋さんの訳のほうが原文に忠実だと思うが、しかし「私は死なないゆえに私は死にます」というのも、なんだか変な日本語ではないだろうか。

と、細かいことに気をとられてしまったが、まあ翻訳に完璧を求めるのは野暮なので、それがいやなら原文につくしかない。本書は、聖女テレサと、高橋テレサと、ふたりのテレサの合作と見なすべきだろう。意味不明なところ、舌足らずなところも含めて、女性らしいあたたかみのうちに、魂を遊ばせることができさえすれば、それでじゅうぶんなのだ。


あなたは 存在しないものを
永遠の存在と一つに結ばれる
あなたは はかない命を
こよなくお愛しくださり
我々の無に偉大さをお贈りくださる
(詩6より)