シャルル・ヴァン・レルベルグ

ベルギー象徴派を中心に

タイトル変更

これまで「象徴派の周囲」というタイトルでやってきたが、タイトルどおり周辺的なものにばかり目が行って、いちばんやりたかったことがどんどん後回しになってゆく。それでは本末転倒ではないか。

というわけで、周囲はばっさり刈り込んで、その髄の髄だけ扱うことにした。

私の見るところ、象徴派の神髄はフランスではなくベルギーにあって、そのなかでもシャルル・ヴァン・レルベルグの芸術にとどめをさす。

彼の作品は本国では非常に大切にされているらしい。しかし、その繊細さゆえに、われわれ外国人がざっと読んだだけでは、そのよさがよくわからない。日本での人気がイマイチなのはそのあたりが原因かと思う。

私もまだそんなによくは読めていないので、このブログとともに、彼の芸術をよりよく理解できるよう、努めて行きたい。

とりあえず今回は「タイトル変更しました」という、ただそれだけの報告です。

象徴派と白樺派

武者小路実篤の『お目出たき人』を読んでいたら、ドイツの画家の名前がいくつか出てきた。

Ludwig von Hofmann
Max Klinger
Otto Greiner
Fidus

かれらはいずれもドイツ象徴派に属するらしい。私はこれまでドイツの象徴主義についてはあまり考えたことがなかったが、そういったものが「白樺」派の活動になんらかの影響を及ぼした可能性はたしかにある。

ドイツ象徴派を特徴づける用語として、「分離派」なるものがある。いわく、ミュンヘン分離派、ウィーン分離派、ベルリン分離派。この分離派、セセッションという言葉は、芥川の作品にも散見し、大正時代の装飾的な工芸にちょっとした彩を添えたものらしい。

分離派のうち、いちばん有名なのはウィーンのそれだろう。なんといっても、あのクリムトを擁していたのだから。しかし、主流を敬遠する私には、むしろミュンヘンやベルリンのそれのほうが魅力的だ。そしてそういったものに同時代的な関心を示した白樺派が、急速に私の興味の対象になりつつある。

象徴派と白樺派には、表立ってはいないが、ある種の接点がある。それを自分なりに究明したい。その接点に身を置いたとき、はたしてどんな光景が見えてくるだろうか。

井村君江『日夏耿之介の世界』

井村君江さんとの出会いは、おそらくこの狷介孤高といわれた詩人の老年を美しく暖かいものにしたんだろう。若くて才能があり、自分の世界に共感を示してくれる女性なんてそうそういるものではない。井村さんが現れたおかげで、詩人はだいぶ「命が延びた」んじゃないかと思う。彼女の筆になる回想の耿之介は、ユディット・ゴーチエの訪問を受けた、晩年のワーグナーを彷彿させる。

私はずいぶん昔から、日夏については雑多な記事を読んできたので、今回の本でもそう目新しい発見があったわけではない。今回本書から得たいちばんの収穫は、この詩人が意外に「エロい人」だったことだ。彼の作品には、あからさまな恋愛詩がほとんどないので、たぶんそっち方面にはあまり関心のない人だと思っていたが、なんの、若いころには芸者遊びに入れあげて、年増の芸者を射落して結婚もしていたようだ。そういうことを念頭において『転身の頌』の詩篇を読めば、また違った印象が生じてくるだろう。

彼の詩作を支え、導いていたのがリビドーだったとすれば、40歳そこそこで詩の筆を折ってしまうのも納得がゆく。彼にとって一篇の詩を書きあげることは、性行為を完遂することとパラレルだったのではないか。彼の気に入りの言葉である「まぐはし」は、「まぐはひ」と呼び交しているようにも思われる。これもやはりコレスポンダンスというべきだろうか。


     * * *


以下、本書を読んで感じたことなど。

日夏の本の装丁をしたり挿絵を描いたりしていた長谷川潔。日本の絵画における象徴主義を考えるのに、この人を出発点にしたらどうか、という考えが浮んだ。

「月今宵 黒主の歌 玄からめ」 日夏には大伴黒主を主人公にした映画の構想があったらしい。

「子めかしさ夕顔の上を出るべし、明石の上のおぎろなき目と」 これは耿之介が井村さんに贈った歌。

日夏の人物評におけるクリシェ、「粋で、こうと(高等)で、人柄で」

本書には貴重な写真がいくつも入っている。堀口大学から贈られたという黒衣聖母のイコンは高くはなさそうだが、古雅でよい。



書斎に於ける詩人、といえばカッコいいが、書庫に出入りする彼の写真をみると、失礼ながら古本屋のオヤジを思い浮べる。

彼は深尾須磨子の直筆創作原稿「ギリシヤの雪」(1947年)を所持していたらしい。

雑誌『聖杯』(『假面』)のモデルになったのは、ジョン・ミドルトン・マリーの『リズム』誌。表紙や挿絵に石井柏亭、永瀬義郎、長谷川潔など。

彼の使う「羞明」という言葉は、目の病気というよりも、もっと心理的なものを指していると思われる。漢和辞典を引くと、「神経衰弱の一種で、強い光の刺戟を畏れる病」とある。原語は photophobia で、直訳すれば「恐光症」となる。

彼は英文科出身だが、卒論はダヌンツィオ論とのこと。耿之介とダヌンツィオ。かみ合っているような、いないような……

日夏のいわゆる「ゴスィック・ローマン詩体」について、著者はゴシック小説とともにゴシック建築との類比を語っているが、これはちょっと無理がありそうだ。だいたいにおいて作品論に属する部分はあまりおもしろくない。あらためて、詩を語ることのむつかしさを思う。

著者は日夏の四冊の詩のうち、なぜか『黄眠帖』をカッコに入れて、詩の系列から外そうとする。折々の詩の雑多な集録と見なされているのだろうか。私ももう少し日夏詩に親しんだら、その理由がわかるかもしれない。

明治生れの文学者はたいていペンネームを使っているが、日夏のように、姓、名ともにペンネームというのは珍しいのではないか。いずれにしても、日夏、耿之介、ともに由来ははっきりしないらしい。私は耿之介というのはたぶんメイゾン鴻之巣と関係があるとみているが、どうか。


     * * *


著者のみた晩年の耿之介は、まさに好々爺といった風情だが、私としては、辰野隆のいわゆる「パラドックスの、パラドックスの、そのまたパラドックスの、酢でもコンニャクでも行かぬ」破天荒な詩人像に興味がある。


日夏耿之介の世界

日夏耿之介の世界

悪魔とオナニズム

1996年から1997年にかけて開催された「ベルギー象徴主義の巨匠展」の図録を眺めていたら、フェリシアン・ロップスにかなりのページが割かれているのに気がついた。

ロップスは、日本でもまとまった画集が出ているくらいで、わりあい人気がある画家だと思うが、私はあまり好きではなかった。なんというか、かれの絵はどれもひどく汚らしく見えるのだ。もし彼の絵に美があるとしても、それは「醜の美学」に支配されたものだろう。『マクベス』の魔女のセリフにあるような、「美に醜を、醜に美を」見出す倒錯的な感性にのみ、かれの絵は訴えかけるものをもっているといえる。

さて、本図録に収められた『悪魔』と題された連作のなかに、「怪物を生む悪魔」というのがあって、翼を拡げたサタンの足元に、なにやら液体のようなものが飛び散っている。絵が小さくてよくわからないので、ネットで画像検索してみたら、それは悪魔の精液で、怪物の創造はオナニーによるものであることがわかった。



この絵にはご丁寧にもサタンの陰茎や陰嚢まで描いてあるが、ダンテの『神曲』によれば、サタンの陰部は地球の中心であり、いわばアクシス・ムンディ(世界軸)なのである。悪の枢軸たるサタンの王国から怪物が生み出されるとすれば、その大元はたしかにサタンの陰部には違いなかろう。

というわけで、思わず吹き出してしまうような、こういうコミカルな絵も描いているロップスという画家に、ほんの少しだけだが、親近感を抱くようになった。

佐藤伸宏『日本近代象徴詩の研究』

これはすばらしい本だ。おかげさまで私にも日本象徴詩の流れがなんとなく理解できた。400ページに近い本だが、一読の、いや再読三読の価値はじゅうぶんある(2005年、翰林書房)。

私の理解したかぎりでの、その流れは、下記のごときもの。


新体詩抄(近代詩の濫觴
  ↓
形想論争
  ↓
北村透谷の詩、ことに評論
  ↓
上田敏の訳詩と評論
  ↓
蒲原有明の詩、ことに『有明集』
  ↓
自然主義陣営からの攻撃
  ↓
北原白秋、ことに『邪宗門
  ↓
三木露風、ことに『白き手の猟人』
  ↓
大正詩壇へ


この流れで決定的なのは、やはり上田敏の訳詩集『海潮音』だ。私は敏の象徴主義理解をどうも甘く見ていたようで、彼は彼なりに、フランス象徴主義の神髄ともいうべきものを日本に移植するにあたって、かなり事の本質を鋭く把握していたようなのだ。そのことは佐藤先生に教えられて、はじめて知った。

有明集』刊行までの、日本の象徴詩の流れは、ときとして横槍が入ることもあったが、おおむね順当なもので、だからこそ『有明集』という名詩集が、月満ちて安らかに生み出されたのだが、そのあとがいけなかった。この詩集は当時の自然派から、徹底的な批判を下されたのである。その結果、有明は詩が書けなくなり、彼の後を襲った詩人たちも、多かれ少なかれ軌道修正を余儀なくされた。

いずれにしても、自然派が横槍を入れたことにより、日本の象徴主義は本来の道から逸れ、独自の道を歩むことになった。ここに象徴主義の、日本的歪曲の源があったのだ。

というわけで、未知のことを多く教えられる良書なのだが、ひとつだけ、どうにもならないことを書いておくと、佐藤先生が高く評価する蒲原有明、そして彼の象徴詩の最高の達成と折り紙をつけられた『有明集』が、どうも私にはおもしろく感じられないのだ。これはたんに嗜好の問題であり、最高の美味とされるものも、私の低級な舌には合わなかった、というだけのことかもしれない。

そういう私にとって、明治末の自然派の徒輩が、よってたかって『有明集』を袋叩きにして葬り去ったことは、有明的なものを詩壇から一掃したという意味では、むしろ快挙とも映るのである。

あと余談だが、私が子供のころの教科書に載っていた詩の定義、「感動を簡潔な言葉で表したもの」というのは、元をたどれば明治末の自然派にまで遡るものであることをこの本で知った。かれらの主張は、小学生が書く詩のレベルでは、こんにちに至るまで、その有効性を失っていない。


日本近代象徴詩の研究

日本近代象徴詩の研究