象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

2021-01-01から1年間の記事一覧

映画漬けの一ヶ月

前回言及した、グラフィック連作の流れを汲む映画*1を少し見てみようと思って動画サイドを漁っていたら、意外にもおもしろいものがいっぱい出てきて、この12月は私にとって映画月間となった。こんな映画漬けの日々を送ったのは久しぶりのことだ。以下に、こ…

ハンス・H・ホーフシュテッター『象徴主義と世紀末芸術』

1965年に原著が、1970年に訳書が出たもの(種村季弘訳、美術出版社)。訳者のあとがきによれば、当時は日本でもアール・ヌーヴォーがちょっとした流行だったらしい。著者のホーフシュテッターはアール・ヌーヴォーの研究家でもあるので、本書でもそっち方面…

モーリス・セーヴと象徴主義

辰野隆の『信天翁の眼玉』の最後の方に次のような記述がある。「凡そ文学に於て自覚的に、徹底的に象徴に拠ったのは、恐らくダンテであるだろう。而して仏蘭西に於ては先ず、十六世紀に於けるリヨン派の詩人モオリス・セエヴをその鼻祖とする。彼の詩集『デ…

矢野目源一と象徴主義

この一風変った文筆家は若年の私をひどく悩ました。なにしろその全貌がわからない。こちらから見えるのはその指先や爪先だけなのだ。どこか全集を出してくれる本屋はないものか、とひそかに思っていた。ところが、吉行淳之介の「七変化の奇人」を読み、太宰…

映画における象徴主義

二十世紀中葉における象徴主義のスポークスマンであるホーフシュテッターは、「サンボリスムは現代のまっただなかに屹立している」と高らかに宣言している。そしてサンボリスム精神の現代における正統的な継承者として映画をあげている。これは私としても同…

種村季弘と象徴派

ホーフシュテッターの翻訳者である種村季弘は、映画評論の分野でも活躍した。ところでそのホーフシュテッターは、象徴派の未来を映画のなかに見出している。そういう事情があるので、種村季弘にはもしかしたらホーフシュテッターの理論を応用した、象徴派の…

石川淳と象徴派

石川淳という作家は、はたして今でも読まれているのだろうか、という思いが頭をよぎる。どうも底が浅くて、すぐに飽きがくるような気がするのだ。本人はいっぱし文学の玄人のつもりで、文体もすばらしいが、かんじんの中身がすかすかなのである。しかし、そ…

アドレ・フルーペットの頽唐詩集『レ・デリケサンス』

ガブリエル・ヴィケールとアンリ・ボークレールとの共著で、1885年に出たもの。1885年といえば、前年にユイスマンスの『さかしま』が出て、象徴派や頽唐派への関心が高まりつつあった時期で、この『レ・デリケサンス』もそういう流れにのった本として、けっ…

厨川白村によるレルベルグの紹介

このブログと並行して細々と続けているレルベルグの翻訳だが、今回の詩篇は自分で訳さずに厨川白村の訳詩を借りることにした。というのも、彼が「詩人ヴァン・レルベルグ」(『小泉先生そのほか』所収)で初めて日本にレルベルグを紹介したときに、この詩を…

篠田一士、諸井誠『世紀末芸術と音楽』

1983年に出た往復書簡集(音楽之友社)。けっこうおもしろかったので、ネットにレヴューはあがっていないかな、と思って調べてみたが、この本に言及した記事は見当らなかった。考えてみれば、1980年くらいから、「世紀末」という文字が一種の流行語のように…

アルバン・ベルク『ルル』

これは、ある人々によれば、二十世紀最高のオペラらしい。そういうものに出会えただけでも、ヴェデキントの戯曲を読んだ価値はあった。 主役のクリスティーネ・シェーファーは、シェーンベルクの歌曲などでは「知的なリリックソプラノ」という感じだったが、…

パプスト『パンドラの箱』

1928年のサイレント映画。この一作で、ルイーズ・ブルックスは映画史上にその名をとどめることになる。 www.youtube.com じっさいのところ、この映画もまたそれなりに忠実に原作を追っているけれども、なんといってもヴェデキントの戯曲が、およそ劇的なおも…

ヴァレリアン・ボロフチク『ルル』

思いがけず袋小路のようになっている「ルル」関連のあれやこれやだが、あまりこういうことにかかずらっているといつまでたっても埒が明かないので、気になるものだけさっさと片付けるとしよう。ボロフチクは私のお気に入りの映画作家で、彼に「ルル」を映画…

山口昌男によるブルックス復興の第一声

大岡昇平によれば、山口昌男が1975年に「朝日新聞」に出した小文が、ルイーズ・ブルックス復興の「戦後の第一声」である。その小文はのちに「スクリーンの中の文化英雄たち」という本に、「女性──この『存在論的他者』」という題のもとに収められた。この小…

大岡昇平『ルイズ・ブルックスと「ルル」』

1984年に出た大判の本(中央公論社)。ブルックスと大岡昇平との取り合せはちょっと奇異の感を与えるが、彼は学生のころ京都で『パンドラの箱』を見て、ブルックスの魅力に参ってしまったらしい。それが昭和5年(1930年)のことで、それからほぼ半世紀後の19…

F. ヴェデキント『地霊・パンドラの箱 -- ルル二部作 -- 』

岩淵達治訳の岩波文庫。この作品のふしぎな魅力がどこからくるかといえば、それはおそらくポルノグラフィックということでけりがつくのではないかと思う。ポルノに特徴的な、背徳と官能と残酷とが、この戯曲にはふんだんに見出せるのだ。そしてもうひとつの…

池内紀編訳『ウィーン世紀末文学選』

本書にいわゆる「世紀末」とは、1890年代からナチスドイツによるオーストリア併合(1938年)までを想定しているらしいが、これはちょっと下限を長く取りすぎているような気がする。そのせいかどうか、収録作品の選択もどこか散漫な感じで、全体として焦点が…

素木しづ子と象徴主義小説

筑摩の古い全集本で「大正小説集」というのを読んでいて、ちょっと引っかかったのが素木しづ子という女流作家だ。いっときは樋口一葉の再来とまでいわれたらしいが、24歳で夭折した。「大正小説集」に収められているのは「三十三の死」という作品で、そこに…

二葉亭四迷と象徴主義

ちょっとしたきっかけで、二葉亭四迷の全集を買ってしまった。新書版で二段組、全九巻という、省スペースのもの。まだ目次をぱらぱら見た程度だが、じつにおもしろそうな作品が並んでいる。こういうものに今まで注意してこなかったのは迂闊だった。さて、目…

中原中也訳『ランボオ詩集』

ランボー、ランボー、 アル中のランボー、 へんてこな やつ。こんな替え歌(?)を作って喜んでいた子供のころの私よ……ともあれ、小林秀雄のランボーは私を驚倒させた。私も小林とともに、ランボーという「事件」の渦中にしばらくいた。しかしその波は来たと…

楳図かずお『洗礼』

楳図先生と象徴派とどう関係があるか。たぶん先生は象徴派なんてものにはまるきり関心がないか、あったとしても自分が象徴派であるとはまさか思ってはおられまい。私も先生の作品を象徴主義的な面から眺めようとしているわけではない。ただ、ここでひとつ書…

ホフマンスタール『チャンドス卿の手紙 他十篇』

私としては、長いことドイツ語で親しんできた「道と出会い」以降の三篇を、日本語でもっと正確に理解したい、と思って買った本だが、最初から順を追って読んでみて、ホフマンスタールという不世出の天才がいかに自分と気質的に共鳴するタイプの作家であるか…

吉田健一『ラフォルグ抄』

これはすばらしい本だ。私はこれを読んでラフォルグに対する考え方がすっかり変ってしまった。これまでは、ラフォルグといえばどうもあまりぱっとしない詩人という印象で、たいして人気があるようにはみえず、ラフォルグラフォルグといって持ち上げる人も見…

斎藤磯雄『近代フランス詩集』

その刊行年(1954年)からもわかるように、本書は日本の詩壇の趨勢と同時代的に関わるものではなく、もっぱら訳者の個人的な嗜好によって趣味的に生み出されたものだ。まあ、詩集というのは本来そうあるべきもので、いたずらに時流と切り結ぶことのみをもっ…

『上田敏全訳詩集』

この本は、『海潮音』と『牧羊神』、および雑誌に出ただけで単行本には収録されなかった拾遺篇からなる。本書を通読して思ったのは、やはり訳詩集としては『海潮音』のほうが『牧羊神』よりもすぐれていることと、拾遺篇にもすぐれたものが少なくないという…

ピエール=ルイ・マチウ『象徴派世代 1870 - 1910』

翻訳者としての窪田般弥の力量はかなりのものだと思うが、本書の訳はちょっと甘いし、索引などを見てもどうもあまり使い心地がよくない。絵画史的なことを除けば、読者が知りたいのは個々の作品の原題とその訳なので、本書のように原題を故意に(?)伏せて…

永井荷風『珊瑚集』

大正2年に出た本で、私の読んだのは、そのうちの訳詩だけ独立させた岩波文庫のもの。本書については、ネットにおもしろい論文が出ている。著者の佐道さんにはいつもながら教えられるところが多い。 『珊瑚集』から『月に吠える』へ * * * わが国の象徴詩…

阿藤伯海「哀薔薇」

哀薔薇 林壑久已蕪石道生薔薇 夢に薔薇(サウビ)の癉(ヤ)めるをみたり。鳥去りて東林白く 澗(タニ)の底、仄かに明けゆけど 夜夜の狭霧に、薔薇は癉みぬ。木立草立繇(シゲ)れる阿丘(オカ)に 幽かなる径(ミチ)、 径尽きて壑(タニ)も嘿(モダ)せり。 壑の八十陬(ヤソグマ)逗(モ)る…

漢詩と象徴詩

漢詩を楽しんでいる日本人はどのくらいいるのだろうか。1パーセントを切っているのは確実だろう。ことによったら、0.1パーセントすら危ういかもしれぬ。というわけで、あまり人気のない漢詩だが、ときどきこれは、と思うようなのがないわけではない。最近、…

宇佐美斉『象徴主義の光と影』

関西の研究者たちによる共同研究(1997年、ミネルヴァ書房)。21篇の論文が並んでいるが、私の関心に触れてくるものはほとんどない。というのも、ここで取り上げられている画家や文学者は、象徴派プロパーではなく、その周りを固めている守護神のような人々…