象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

山口昌男によるブルックス復興の第一声


大岡昇平によれば、山口昌男が1975年に「朝日新聞」に出した小文が、ルイーズ・ブルックス復興の「戦後の第一声」である。その小文はのちに「スクリーンの中の文化英雄たち」という本に、「女性──この『存在論的他者』」という題のもとに収められた。

この小文は、まず「何故今ごろ、これほどルイーズ・ブルックスに私はこだわるのであろうか」という著者の自問とともに始まる。この「何故」に対する回答は、ついに語られないまま終るのだが。

ついでやや唐突にジンメルが引き合いに出される。ジンメルは「異人論」において、社会学的他者として「異人」を、また存在論的他者として「女性」を論じているらしい。

女性が存在論的他者である、とはどういう事情を指しているのだろうか。

二元論的な思考で世界を抽象的にとらえる男性的な形式は、「存在」から「理念」への道である。その過程がいわゆる「歴史」である。

いっぽう女性は、宇宙論的に自足している。ジンメルはいう、「女性の持つ(自足による)閉鎖という形式は、昔から宇宙的象徴性の香りを女の上に吹きかけている……」

平たくいえば、女性は存在の根柢に触れているのだ。

そして山口昌男は、「『地霊』と『パンドラの箱』というヴェデキントの表現主義の作品は、そのような存在するものの奥に深く根を降ろし、歴史的世界を超越する故に断罪されなければならない神話的女性「ルル」を描き出し」ている、と書いている。要するに、この戯曲において、存在論的他者である女性性が描き出されている、といいたいのであろう。

次にパプストの映画『パンドラの箱』に言及して、「映像芸術がそれを生み出した芸術をも、物語性をも乗り越えることが出来ることを示した」ことを称揚しながら、しかしそれが可能になったのは、ひとえにルイーズ・ブルックスという女優を得たことによる、と断案を下す。

なぜルル役者としてはルイーズ・ブルックスしか考えられないか。それは彼女が「存在の深奥から、ほとんど男性、女性の差異を超えるものとして立ち現われた「地の精霊」」であるらだ、という。これが、この小文のいわば結論だ。

男性・女性の差異を超えて立ち現れる「大地の精霊」、ゲニウス・ロキとしてのルイーズ・ブルックス、そういうものが山口昌男をとらえた、というわけだが、これだけではいかにも説明不足で、いったいどうして山口がブルックスにこだわるのかの説明にはなっていない。

彼の世界観からすれば、ここはどうしても「道化」というキーワードをすべりこませたいところだが、ルルはともかくとして、ルイーズ・ブルックスと道化とを結合せしめることは可能だろうか?

またよしんば可能だとして、そのことがルイーズ・ブルックスの魅力の謎を少しでも解き明かすことになるのだろうか。

というような感想をもった。