象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

素木しづ子と象徴主義小説


筑摩の古い全集本で「大正小説集」というのを読んでいて、ちょっと引っかかったのが素木しづ子という女流作家だ。いっときは樋口一葉の再来とまでいわれたらしいが、24歳で夭折した。「大正小説集」に収められているのは「三十三の死」という作品で、そこに描き出された感覚がふつうでないのは読んですぐに気がつく。いったいどういう作家だろうか、と思って『青白き夢』という作品集を買ってみた(大正7年、新潮社)。

彼女については、復刻本もあり、ネットにはりっぱなホームページもある。いまでもけっして忘れ去られているわけではないのだ。

さて、その作品集を読んでみて、そのいくつかは象徴主義の圏内に入っているのもあるように思った。まずその筆頭は「幸福への道」だろう。

話の筋は簡単で、若い二人の恋人が、ある秋に、どこかの郊外へ散策に出て、緑の野原を見つけようとする。しかし、どんなに歩いても、いい野原は見つからない。秋の郊外に春の野を捜すのがどだい無理なのだろうか。しかし、ともかくそれを捜しながら道を歩いたことだけは確かなのだ。そう思って、二人は帰りの電車内で初めて互いの手をとりあう、というもの。

これだけ読めば、なんだそんなことか、と思われるだろう。しかし、この話の全体を一幅の絵のように、しかも夢のような雰囲気をもった絵のように描き出す作者の筆は平凡でない。その静謐と、明るさと、ときに影をおとす暗さ、また階段や三本の松の木や鉄道線路といった暗示的道具立て。作者はそれらをもって、おそらくは無意識のうちに象徴主義へと足を踏み入れている。

また、つづく「白霧のなかに」などは、まっくらな蒸風呂のなかにうごめく男女の肉体を描いて、まるでホドラーの絵を見るかのような、ふしぎな効果をあげている。

私の考える象徴主義小説には、状況のアプリオリともいうべきものが必須なのだが、上のふたつの短篇などは、その条件を満たしているように思う。なお、状況のアプリオリについては、いずれ詳述する折もあるだろう。

『青白き夢』には、彼女の師である森田草平の序と、夫である上野原清貢による跋が添えられている。どちらも味わい深い文章だが、象徴主義とは関係ないのでここでは触れないでおこう。