象徴派の周囲

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ヴェルレーヌ「叡智」


長いこと読む気にならなかったのをようやっと通読。ヴェルレーヌのおかげで聖女テレーズの詩を読む気になったので、お返しに彼のものも読んでおかないと、という気持で手に取った(河上徹太郎訳)。

誤訳の数々に悩まされながら、からくも読み切ったが、どうもあまり感心しない。たしかにここには罪を悔いて涙を流しながら神に祈る詩人の姿が見てとれる。その誠意を疑うつもりはない。しかし、いったい詩人がどこまで本気なのか、それがはっきりしないのだ。どうも、苦境に陥ったから神に手を合わせているだけの、にわか信者のように見えてしまう。

彼はべつのところで(「呪われた詩人たち」)、「私は信仰し、そして行動によっても思想によっても罪を犯すのである」と書いている。これはどういうことかといえば、彼は信仰しているときは全人格をあげての信者であり、また放蕩しているときは、これも全人格をあげての蕩児なのだ。そのときどきで態度が180度変ってしまうので、どうもあまり信用する気になれないのである。

ランボーはこういったヴェルレーヌのにわか宗教性を「ロヨラばり」と呼んで軽蔑していた。見者ランボーからすれば当然だし、われわれ非見者からしてもそのように見える。

そんなわけで、「叡智」に集められた宗教詩は、霊性的な深みもなければ実存的な切実さもない作品群、という位置づけが私のなかにできてしまった。もちろん、宗教的ならざる他の諸篇は、いつものヴェルレーヌ節であり、芸術的にもすぐれていると思われるが。

そうそう、本詩集の最後のほうに、聖女テレーズに言及した詩があった。これを読むと、はたしてヴェルレーヌはこの聖女を手放しで讃美しているのかどうか、怪しくなってくる。それくらい皮肉たっぷりの、悪意に満ちた詩なのだ。ヴェルレーヌは序文で「この書の中には、カトリック教徒の繊細な耳を苛立てるような不協和音は何もない」と書いているけれども、私にはけっこう耳障り、目障りな詩篇であった。

異色といえば、なぜか本詩集にはカスパール・ハウザーを扱った詩(私はおとなしい孤児)が入っている。

最後に個人的な思い出を。

このヴェルレーヌという詩人は、私を詩の世界に引っぱり込んだ張本人なのである。鈴木信太郎の訳した岩波文庫。あれを繰り返し読むことで、それまで五里霧中だった詩の世界にようやっと参入することができたのだった。たぶん中二のころだったと思う。

そういういわれがあるので、ヴェルレーヌはある意味で「わが詩人」といえる存在なのだが、いつのころからか疎遠になってしまって、いまではあまり思い出すこともない。たまになにかのアンソロジーで読んでも、なんだか散漫な詩が多いような気がして、興が乗らないのだ。今回の「叡智」もイマイチだったし、今後も彼との関係が好転することはなさそうだ。

岩波文庫ヴェルレーヌ詩集。いま思えばあれは完璧なアンソロジーだった。その完璧さゆえに、原文を見ようという気にもならなかった。解説がまた輪をかけてすばらしかった。私が死んだら、棺桶のなかに入れてほしい一冊だ。