象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

モーリス・セーヴと象徴主義


辰野隆の『信天翁の眼玉』の最後の方に次のような記述がある。

「凡そ文学に於て自覚的に、徹底的に象徴に拠ったのは、恐らくダンテであるだろう。而して仏蘭西に於ては先ず、十六世紀に於けるリヨン派の詩人モオリス・セエヴをその鼻祖とする。彼の詩集『デリイ』は全篇悉く象徴である。其以後仏蘭西文学に於ては、主義として象徴に立脚する事は長く跡を絶ったが、千八百八十年代に至って再び象徴詩が勢を得るに至った」

これを読んでセーヴに興味をもったものの、最近に至るまですっかり忘れていた。先日ちょっとしたきっかけでマリオ・プラーツの「十七世紀のイメジャリー研究」という本を手に入れて、索引をたよりにぼつぼつ読み進めているうちに、寓意画本(エンブレム・ブック)の分野においても、セーヴがけっこう重要な位置を占めていることを知った。象徴と寓意。この一見仲のよさそうな、しかし厳密には敵対者であるふたつの属性をそなえているらしいモーリス・セーヴという詩人が、にわかに私の関心をそそるようになったのである。



手っ取り早いところで、河出書房から出た世界詩人全集のなかのセーヴの詩を見てみよう。『デリー』から三篇とられている。


第17番

我が心 君より離かる時来たる前に 分たれなむ、ローヌの流、ソーヌの流は、いさかひの われらとともに あるに先立ち、合はされなむ、これなる山と、かしこの山は。

君と我れ、睦みてあれば、眺め渡さむ ゆるやかに、上流(かみ)てをさして進むローヌを、勢も、いとど激しく、逆(さか)のぼるソーヌを。

わが炎いささかなりと衰ふるよりは、わが誠、僅かなりとも薄るるよりは。

固き愛も、雲よりはかなし、この心の欠けたれば。


第396番

夕されば、耕作(つちかふ)人は、汗にまみれつ、憩ひをば求めて今は、帰りゆくなり。

巡礼も、その長旅を果たし終れば、安らかに還り来りて家路を辿る。

おおローヌ、怒り狂ひて、アルプスの嶺ゆ、激しくも、流れ下りて、やさしくなれを その胸に迎へ入れんと、心静かに なれを待つソーヌの河に進み寄るなり。

されど我は、汗にまみれて、願ひを追へど、安らぎも、憩ひも得られず、思ふ人よりは。


第221番

春至り、鱒遡(のぼ)りくる時ともなれば、思ふ人と、河船のうちに、我は上りぬ、傍に、漁(すなど)る人々、獲物を数へぬ。

我が君の、そを一つ手に取り給ひしに、新しき大気を吸ひて、撥ね返りつつ、そのはてに、水へ逃れ入り、君涙しなげかふ。

我は言ふ、「慨きを止めてよ、捕え得ざりし いろくずの幸思ひつつ、我ぞ歎かむ。いろくずは、きびしき獄舎(ひとや)を出で去りし故、されど我、君が御手より逃れ得ざれば」と。


     * * *


これらの詩篇の訳者は渡辺一夫と福井芳男だが、その渡辺一夫にセーヴ関連の論稿が少なくとも三つある。「『BLASONS集』覚書」、「モリス・セーヴの影法師」「ヴァレリ・ラルボーの『モリス・セーヴ論』」。

そのなかで、彼もまた師と同じく「モリス・セーヴは、フランス最初の『象徴詩人』と言われている」と書いているけれども、同時にそこに多くの留保をつけている。つまるところ、彼はセーヴを近代的意味における象徴詩人とは見なしていないのだ。そしてそのことは、上にあげた三つの訳詩からも察せられるだろう。

そのうえで、『デリー』の第122番について、「主観と客観との交錯合体、新しい詩的次元の発見に感ぜられるような近代象徴主義への傾向」を認めることができる、と書いている。その122番とはこんな詩だ。


De ces haultz Montz jettant sur toy ma veue,
Je voy les Cieulx avec moy larmoier:
Des Bois umbreux je sens a l'impourveue,
Comme des Bledz, ma pensée undoier.

En tel espoir me fait ores ploier,
Duquel bien tost elle seule me prive.
Car a tout bruyt croyant que l’on arrive,
J'apperçoy cler, que promesses me fuyent.

O fol desir, qui veult par raison vive,
Que foy habite, ou les Ventz legers bruyent.


十六世紀のフランス語はひどく読みにくいが、幸い英訳をネットで見つけたのであげておく。


Casting my gaze abroad from these high hills,
I see the heavens moistened with my tears:
From shady woods, unforeseen, thought spills
And gently ripples, with the wheat's ripe ears.

Such is the hope with which she re-appears,
Before she swiftly snatches all away;
At every sound convinced she makes her way
To me, still I see all promise of her fleeing.

O mad desire, which would have reason say
Constancy lives where light winds have being.


さて、こうして『デリー』449篇のうちの4篇を見たわけだが、そこには私の考えるような象徴主義はきわめて稀薄だといわざるをえない。いずれ全貌を見てからでないと確かなことはいえないが、少なくとも辰野博士の「彼の詩集『デリイ』は全篇悉く象徴である」という一文が、根も葉もない虚言であることだけは知れた。おそらく博士はセーヴの詩を一行も読まず、たんに「フランス最初の象徴詩人」という俗称(?)だけをとりあげて、架空の『デリー』を頭のなかに作り上げてしまったらしい。

とはいうものの、博士の一文がなかったら、私がセーヴの存在を知ることもなく、こんにち『デリー』を顧みることもなかったわけで、やはり恩恵を被っていることには違いないのだ。