象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

種村季弘と象徴派


ホーフシュテッターの翻訳者である種村季弘は、映画評論の分野でも活躍した。ところでそのホーフシュテッターは、象徴派の未来を映画のなかに見出している。そういう事情があるので、種村季弘にはもしかしたらホーフシュテッターの理論を応用した、象徴派の立場から眺めた映画評があるのではないか、という気がしてきた。そういうものがあるなら読んでみたい。じっさいのところ、映画における象徴主義というのは、簡単なようにみえてなかなか捕捉しがたいものがあるのだ。

とはいっても、種村の仕事は厖大である。そのどこに象徴派関連の論稿が潜んでいるか、まったく窺い知ることはできない。

とりあえず彼の映画評を見てみよう。ここに潮出版社から出た『夢の覗き箱』という本がある。この本のどこかにホーフシュテッターが影を落としていないだろうか。

というわけで、目を皿のようにして探してみたが、著者を積極的に象徴派と結びつけられるような論稿は見当らなかった。もちろん、そんなこととは無関係に彼の映画評はおもしろいが、ひとつだけ、これは彼ならではの着眼点だな、と思われたのが、キングコング図像学を論じてクプカに言及するあたりだ。

「この絵には右手に額に蛇を絡ませたスフィンクスの姿をしている女が横臥して、一枚のデッサンを描いている猿の方を慈愛とも冷笑ともつかぬ謎めいた表情で眺めやっている。猿が描いているデッサンは、何と、アダムとイヴが蛇のひそむ知恵の樹の左右に立っていてイヴが林檎を手渡そうとしている創世記の場面なのだ。原人アダムはこの瞬間からイヴの誘惑につれて禁断の性を知り、同時に死すべき存在と化して自然から分離される。クプカはこの創世神話をシニカルにも猿と女=スフィンクスにもう一度くり返させることによって進化論的に再解釈しているのである」


クプカ「獣性と神話との間で」1900年


種村は、この絵のスフィンクスの女と猿とは、まさに『キングコング』のアンとコングそのものである、と喝破して、通常のようにアンを犠牲者とするのではなく、むしろコングを誘惑する宿命の女(ファンム・ファタル)として位置づけている。

論そのものはこじつけくさいが、キングコングを語るうえでクプカなんていう画家を持ち出してくるところに彼と象徴派との接点を見たような気がした。