楳図かずお『洗礼』
楳図先生と象徴派とどう関係があるか。たぶん先生は象徴派なんてものにはまるきり関心がないか、あったとしても自分が象徴派であるとはまさか思ってはおられまい。私も先生の作品を象徴主義的な面から眺めようとしているわけではない。
ただ、ここでひとつ書いておきたいのは、この作品の題名「洗礼」についてである。
ネットを一瞥してもわかるように、本書をあれこれ論う人は多いのだが、「洗礼」という題の奇妙さに触れている人はほとんどいない。いったい、この「洗礼」という奇妙な、そして秀逸な題名に、作者はどういう意味を託したのだろうか。
これは、先生ご存命のうちに、ぜひともお訊きしたいのだが、おそらく満足な答えは返ってこないだろう。「なんとなく気分でつけた」とか、そんなことではないかと思う。
しかし作者の意図はどうあれ、この題名としての「洗礼」が、本来の意味の洗礼、キリスト教でいうところのバプチズムとはなんの関係もないことは明白だ。そして、比喩的な意味での「洗礼」もまた、本作とはなんの関連性ももっていない。つまるところ、どこをどう探しても、本作を「洗礼」と題する必然性はまったくないのである。
にもかかわらず、これを読んだ人にとっては、「洗礼」という題名がなんの違和感もなく受け入れられるばかりか、これ以外に適当な題名が思い浮ばないほど、しっくりかなったものになっている。これほど内容と題名とが不可分であると感じさせる作品も珍しい。
私はここに象徴主義のひとつのあらわれを見たいと思う。
つまりここで、「洗礼」という言葉は、キリスト教的なあれこれの意味合いをすべて剥奪されて、いったんからっぽのシニフィアンとなり、そこにこの1000ページからなる漫画の内容が詰め込まれたのである。内包が稀薄になって、外延のみが拡大した、といえばいいか。
だから、「洗礼」という言葉はこの作品の何を象徴しているか、という問いには意味がない。「洗礼」が象徴するのは、本作の全体であり、それは不可分の統一体として、部分に分かつことはできないのである。
そして、こういう操作をほとんど無意識にやってしまえる楳図先生は、やはりアーラヤ識の直撃者であり、自覚せざる象徴主義者であろう、と思ってしまうのだ。
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ほぼ半世紀ぶりに、4巻からなる文庫本を手に入れて読んでみたが、いわゆる「落ち」まで失念していたのは自分でも驚きだ。しかし、おかげで新作を読むのと変らない感興を味わえたのは幸いだった。