象徴派の周囲

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佐藤伸宏『日本近代象徴詩の研究』

これはすばらしい本だ。おかげさまで私にも日本象徴詩の流れがなんとなく理解できた。400ページに近い本だが、一読の、いや再読三読の価値はじゅうぶんある(2005年、翰林書房)。

私の理解したかぎりでの、その流れは、下記のごときもの。


新体詩抄(近代詩の濫觴
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形想論争
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北村透谷の詩、ことに評論
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上田敏の訳詩と評論
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蒲原有明の詩、ことに『有明集』
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自然主義陣営からの攻撃
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北原白秋、ことに『邪宗門
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三木露風、ことに『白き手の猟人』
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大正詩壇へ


この流れで決定的なのは、やはり上田敏の訳詩集『海潮音』だ。私は敏の象徴主義理解をどうも甘く見ていたようで、彼は彼なりに、フランス象徴主義の神髄ともいうべきものを日本に移植するにあたって、かなり事の本質を鋭く把握していたようなのだ。そのことは佐藤先生に教えられて、はじめて知った。

有明集』刊行までの、日本の象徴詩の流れは、ときとして横槍が入ることもあったが、おおむね順当なもので、だからこそ『有明集』という名詩集が、月満ちて安らかに生み出されたのだが、そのあとがいけなかった。この詩集は当時の自然派から、徹底的な批判を下されたのである。その結果、有明は詩が書けなくなり、彼の後を襲った詩人たちも、多かれ少なかれ軌道修正を余儀なくされた。

いずれにしても、自然派が横槍を入れたことにより、日本の象徴主義は本来の道から逸れ、独自の道を歩むことになった。ここに象徴主義の、日本的歪曲の源があったのだ。

というわけで、未知のことを多く教えられる良書なのだが、ひとつだけ、どうにもならないことを書いておくと、佐藤先生が高く評価する蒲原有明、そして彼の象徴詩の最高の達成と折り紙をつけられた『有明集』が、どうも私にはおもしろく感じられないのだ。これはたんに嗜好の問題であり、最高の美味とされるものも、私の低級な舌には合わなかった、というだけのことかもしれない。

そういう私にとって、明治末の自然派の徒輩が、よってたかって『有明集』を袋叩きにして葬り去ったことは、有明的なものを詩壇から一掃したという意味では、むしろ快挙とも映るのである。

あと余談だが、私が子供のころの教科書に載っていた詩の定義、「感動を簡潔な言葉で表したもの」というのは、元をたどれば明治末の自然派にまで遡るものであることをこの本で知った。かれらの主張は、小学生が書く詩のレベルでは、こんにちに至るまで、その有効性を失っていない。


日本近代象徴詩の研究

日本近代象徴詩の研究