象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

象徴詩の十字路に立って


象徴詩の世界をひとつの都市に見立てた場合、私の現在いる場所は、その中心からだいぶ離れたとある十字路だ。そこから東を見ると、リヒャルト・デーメルがいる。西を見ると、シャルル・ヴァン・レルベルグがいる。南には大手拓次がいる。北には日夏耿之介がいる。この四人が、わが象徴詩界を守護する四天王なのである。

かれらの生没年を記せば、

レルベルグ 1861 - 1907
デーメル 1863 - 1920
拓次 1887 - 1934
耿之介 1890 - 1971

このうち、レルベルグとデーメルとは、厨川白村の紹介で知った。ただし、レルベルグが私にとって大切な詩人になったのは、ユベール・ジュアンというベルギー人の書いたフェルナン・クノップフ論を読んでからだ。ジュアンは、クノップフの絵に対応するような詩を、レルベルグのなかに見出している。それと、レルベルグガブリエル・フォーレの歌曲集『閉ざされた庭』と『イヴの歌』に歌詞を提供したのは大きい。レルベルグのこのような、文学、美術、音楽の各分野を横断するようなあり方は、世紀末の象徴派のなかでも異彩を放っている。同じことは、ある程度までデーメルについてもいえるだろう。

耿之介と拓次とでは、拓次のほうが年下のような気がしていたが、じっさいは彼のほうが三歳年上だった。耿之介は拓次については一切言及していない。が、認めていなかったわけではなさそうだ。いっぽう拓次のほうは、耿之介の詩を「十八世紀の情緒」と一蹴している。

かれらが互いにどう評価し合っていたかは、いまとなってはどうでもいい。かれらは二人とも、同じ時代の雰囲気のなかで、詩以外では表現できないものを書いた。私にはそれでじゅうぶんだ。

というわけで、この十字路は私にとって非常に見晴しがいいいのだが、ほかの人にはどうだろうか。

窪田般彌『詩と象徴』


1977年に刊行されたもの(白水社)。

本書で扱われているのは、「広い意味での象徴主義的風土に生きた文学者」たちである。広義の象徴派といってもいいだろう。

まず蒲原有明。この人の『有明集』は最低限読んでおかないと、日本の象徴主義について語ることはできない。というわけで、目下精読中だが、どうも有明さん、雰囲気がどよーんと暗いんですよね。そこへいくと、当時並び称せられたという、薄田泣菫は明るい。どっちが好きかといわれれば泣菫だが、しかし泣菫の詩は象徴詩と呼ぶにはちょっと無理がある。

次は岩野泡鳴。この人は評論や翻訳で、当時(明治40年ごろ)の象徴詩熱を煽りに煽ったらしい。生れながらの煽動家であり、その影響は昭和の小林秀雄中原中也河上徹太郎にまで及んでいる。

次は大手拓次。窪田氏のエッセイには、原子朗氏の『大手拓次研究』という本が大きな影を落しているが、これは文句なしにすばらしい本だ。もう一度読み返してみたい一冊。

次は永井荷風荷風アンリ・ド・レニエとは、顔つきがなんとなく似ている。どっちもあまり好きな顔ではない。しかし、顔が嫌いだから読まないというのはあんまりなので、窪田氏の訳した『生きている過去』や『ヴェネツィア風物誌』あたりから手をつけてみよう。

次は萩原朔太郎。朔太郎は詩だけでなく、詩論もかなり書いている。読むべし。

日夏耿之介はとばして、次は中原中也。詩人としての中也にはあまり関心がもてないが、彼の訳したランボーを最近読んで、ひどく感心した。彼の手にかかると、ランボーがれっきとした象徴詩人にみえてくる。これは一種の魔術だ。

次は富永太郎小林秀雄。どっちも、いまの私にはどうでもいい存在だ。かれらはたぶん広義の象徴派からも離れている。

次は森有正。この人も象徴派とは無縁だが、リルケを介することで、遡行的に象徴派に結びつけることは可能だろう。とはいっても、そんなこととは関係なく、森有正は私にとって大切な思想家であり、文学者だ。

金子光晴安西冬衛、吉田一穂、このあたりはなんとなく私にも親しめそうだが、つづく西脇順三郎瀧口修造がいけない。象徴派の未来形だか何だか知らないが、ここまでくるともう私の読解能力を超えている。ひとは語りえぬものについては沈黙せねばならぬ。理解しえぬものについても同断であろう。

本書の末尾に並んだ三つのエッセイは、訳詩をテーマにしている。つまり、『新体詩抄』と、上田敏の『牧羊神』、それに鴎外の『於母影』など。日本の詩は、もとはといえば訳詩から始まっているので、そういったものを見直すことは、つねにすでに必要なのである。温故知新のつもりで、再顧すべし。

ジョン・ミルナー『象徴派とデカダン派の美術』


1976年にパルコ出版から出たもの。訳者は吉田正俊氏。

この本は私には画期的だった。廉価版であり、どこの本屋でも置いてあって、しかも中を開けば珍奇な図版のオンパレードという、他に類を見ない本で、私はこれを立ち読みすることで、象徴派絵画に関する基本的な知識を身につけたように思う。

今ではアマゾンのマケプレで1円から売っている。なんぼなんでもひどすぎはしないか、と思いつつ、あまりの安さについ買ってしまった。届いたものを見ると、表紙がクノップフの絵に差し替えられている。前のもの(デルヴィル)のほうがよかったような気がするが、中身は元のままなのでよしとしよう。



左が初期の、右が後期の表紙


久しぶりで眺めて懐かしさを感じるか、といえば否。というのも、この手の絵は私の中では現在進行形なので、懐古の対象にはならないのだ。それにしても、本書における図版の選択のすばらしさはどうだろう。また当時は気づかなかったが、ミルナーによる本文も簡にして要を得たもので、今でもじゅうぶん読むにたえる。

題名に、「象徴派とデカダン派」とあるが、著者はこのふたつを明確に区別していない。むしろ線引きをあいまいにすることで、ある雰囲気をもったひとつの世界を浮び上らせようとする。一般に「世紀末」の名で呼ばれるのがそれで、象徴派も、デカダン派も、さらにいえばダンディズムも、耽美主義も、オカルティズムも、世紀末の土壌から析出した結晶のようなものだと思えばいい。

この読みやすく親しみやすい良書は、すでに絶版になっているが、上にも書いたように、古本業界ではだぶついているようなので、未読の方はぜひとも一本贖っていただきたい。図版はすべてモノクロだが、それがかえって想像力を刺戟してくれる。


アンリ・ペール『象徴主義文学』


原本は1976年、訳本は1983年の刊行。

文庫クセジュにおいて、前に取り上げたシュミット教授の本と入れ替えになったもの。教授のものが、大学での講義のような体裁をもっているとすれば、こっちはもっとくだけた、一般向けの講演といった趣がある。ほとんどが雑談のようなもので、象徴派に興味のある人にはじつに楽しい読み物になっている。



本書においては、要約はあまり意味をなさない。というのも、著書の意図するところは、この雑然たるアネクドートの集積から、読み手が自由に自分なりの象徴主義理解を引き出すことにあると思われるからだ。こういうと、いかにも無責任な本に思われるかもしれないが、もちろんそうではない。本書の記述をきちんと踏まえている限り、概念的には象徴主義の圏外に出たくとも出られない、という「囲い込み」が巧妙になされている。われわれはその「囲い」のなかで、めいめい好きなように自分の畑を耕すだけのことだ。

窪田般彌『日本の象徴詩人』


1963年(昭和38年)に紀伊国屋新書で出たもの。

本書で扱われているのは、上田敏蒲原有明北原白秋三木露風三富朽葉萩原朔太郎日夏耿之介小林秀雄、吉田一穂の九人。ところで、これらのうち、フランスのサンボリスム精神に忠実な、真の意味での象徴詩人が一人もいないのである。いずれも本来のサンボリスムから、さまざまな制約によって逸れて行った人々ばかりだ。私は本書を読んで、ある詩人をうかつに象徴派と呼ぶのは危険だし、世に象徴詩といわれているものも、たいていはサンボリスムとは何の関係もない、ということをおぼろげながら悟った。

つまり、日本象徴派なるものは、フランスの本家とは根本的な理念すら共有していない、きわめて独自なものであった、というのが私が本書から受けた印象だ。

まあそうだろうな、と思う。そして、それだからこそ、日本象徴派はおもしろいのである。根本的な誤解の上に成り立った、日本的歪曲の産物であるところに、私は倒錯したオリジナリティを見出すのだ。こうした一群の人々を、日本的な「象徴の森」の散策者に見立てるのは私の趣味にも合う。

というわけで、とりあえずは有明、白秋あたりから攻めてみたい。本はかなり買いこんであるので、すぐにでも手が付けられる。