生田耕作といえば世間ではシュルレアリスムの研究者として知られている。たしかに彼の訳したブルトンの「第一宣言」はすばらしい。まるでブルトンの霊が生田に憑依して筆記させたかのようだ。しかし私が本当に生田をすごいと思ったのは、『ヴァテック』に寄せたマラルメの序文を読んだときだった。難解無比のマラルメの文章が、じつに明晰な日本語になっているのである。
この調子でマラルメの詩も訳してくれていたら、と思うが、彼には象徴派詩人のまとまった訳詩集はないようだ。しいていえばピエール・ルイスの『ビリティスの唄』くらいだろうか。
彼の訳詩のサンプルとして、ジョイス・マンスールの『叫び』から十篇訳出されたもののうちの一篇を引いてみよう。
そそり立つ二個の岩間に
毀たれた一人の女が生きている
矢車菊の散らばる土に
片足は根をおろしている
夜と夢の獣たちが
失われた歌の調べで彼女を養う
其処で 彼女は待っているのだ 空が消え
永遠を解き放つのを
ジョイス・マンスールはシュルレアリスム詩人ということになっているが、この作品などは象徴詩といってもいいだろう。
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生田はグループに属さないシュルレアリストを目指したということだが、シュルレアリストであり続けることはなかなかむつかしい。というのも、シュルレアリスムの重要な要素として、反抗ということがあるからで、若いころなら知らず、年を取るとともにそういう姿勢を取り続けることがだんだんとむつかしくなるのだ。あらゆる事象に「ノン」を叩きつけるといえば聞こえはいいけれども、いい年をした大人がそういつまでも青臭いことをいっていられるものだろうか。
というわけで、シュルレアリスムから反抗的要素を取り除いていくと、だんだんと象徴主義に近づくのである。もともとシュルレアリスムは象徴主義とダダイズムとの鬼子とされているから、ダダ的な要素を稀薄にしていくと、象徴主義の成分が濃くなってくるのは理の当然だ。晩年の生田はシュルレアリストであることを辞めて、もしくはカッコに入れて、象徴派になり下ったのではないか、と思うのだがどうだろう。
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彼の詩に対する態度はあまり明確ではないが、晩年に漢詩への関心を深めたことと、木水彌三郎と親しく交わってその詩集を刊行していることなどから推して、象徴詩の世界に遊ぶことも罕ではなかったと思いたい。木水彌三郎についてはまた改めて記事を書いてみようと思う。
詩はさておき彼の愛した画家たちを眺めてみると、まずフランツ・フォン・バイロスがあげられる。バイロスは1866年に生れているので、世代的にはまさに象徴派に属している。そしてその画風は、あまりに猥褻色が強いけれども、その露骨なところを割り引いてみれば、意外に象徴派風のたたずまいを残している。
次にフェリシアン・ロップス。この画家はむしろ後の象徴派や頽唐派を準備した先駆者的な存在だが、やはり露骨なところや皮肉なところがあって、風俗画のほうに向いていそうな画風である。生田はおそらくその悪魔主義的なところに惹かれたものと思われる。バルベー・ドールヴィリーの世界とパラレルなものが彼の絵にはあるのだ。
次に『サロメ』の挿絵で名高いアラステアがいる。ちょうどビアズリーとバイロスとの中間にあたるような画風で、同時代のフーゴー・シュタイナー・プラークなどとも共通する、書物のための絵に特化したような画家だ。
その流れに棹差すのが、シュルレアリスムの傍系に属する挿絵画家たち、すなわちハンス・ベルメール、アンドレ・マッソン、レオノール・フィニーといっためんめんだが、ピカソに近いマッソンはさて措くとして、ベルメールとフィニーは存外象徴派と親和性が高い。ベルメールの愛する「少女たちの楽園」というテーマは象徴派が得意としたところだし、フィニーには象徴派の詩人たちに寄せた挿絵本がいくつかある。
そして最後に、これが決定的ではないかと思うのだが、フェルナン・クノップフへの傾倒がある。クノップフについてはテレビでの紹介をもとにした小冊子(『クノップフの世紀』)が出ていて、彼の象徴派に対する考え方がよくわかる。これを見ると、彼の象徴派理解というものは、たぶんに気分的なもので、厳密な理論に裏付けされたものではなさそうだ。
ここでおもしろいのは、クノップフの絵画の象徴的意味を理解するうえで、エリファス・レヴィの『高等魔術』がたいへん役に立つ、と述べていることだ。「おそらくクノップフも『高等魔術』を精読し、そこから大きな影響を受けたことは間違いありません」とまで書いているのだが、ほんとうだろうか。どうも眉唾物だが、レヴィの著作とクノップフの芸術との関連を探るという意図をもって、もう一度『高等魔術』を読み直してみるのもいいだろう。