象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

ローデンバック『死都ブリュージュ』


あらすじ

妻に死に別れてブリュージュへやってきた男。彼はこの死んだ町に住み、町と同化しつつ衰滅することに、倒錯した癒しを見出している。五年後、彼は亡き妻と瓜二つの女に出会う。女は芝居の踊り子。やがて二人は半同棲生活を送るようになる。男はあくまでも亡き妻に忠実なままに、新しい女の内なる亡妻を愛しているつもりだが、それは情欲の口実にすぎない。やがて破綻がやってくる。痴話喧嘩のすえ、亡妻の遺品である髪の毛(男にとっての聖遺物)をおもちゃにした女をその髪の毛で絞め殺す。


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20年ぶりに再読したが、まあ前回よりは多少おもしろく読めたかな、という程度だ。こういうのは、やっぱり原文で読まないと、ほんとの味はわからないんだろう。といっても、翻訳の出来がよくない、というのではない。訳者はしっかり仕事をしている。にもかかわらず、ポエジーが行間から抜けて行ってしまい、退屈な散文がだらだら続くようにみえるのは、どうしたことか。

これはおそらく原作に問題があるのではなく、読み手の私に非がある。どうもこの手の小説を味わう能力が先天的に欠けているようなのだ。たとえば私は永井荷風がどうしても好きになれないが、それと同じような理由で、このローデンバックの小説にもおもしろみが見出せないんだろう。

しかしまあそれはどうでもいい。というのも、今回本書を再読したのは、個人的な好みは抜きで、象徴主義小説とはどういうものか、ということを考えてみたいと思ったからだ。



この小説は、ある人にとっては、心理学小説、幻想小説散文詩の中間に位置するものであり、またある人にとっては、その技巧の交替において、小説を刷新しようとする当時の試みの最初の実りと映るだろう。各人はめいめいの流儀で、この小説のとらえどころのなさを解明しようとする。

ものの本によれば、象徴主義小説における中心問題は、詩的な意図と語りの必然性とをどう折り合せるか、ということに存する。おおざっぱにいえば、ポエジーとロマネスクとの兼ね合いということになるだろう。『死都ブリュージュ』の場合でいえば、心象風景としてのブリュージュの喚起と、男女間の愛欲の物語とがそれに当る。ローデンバックの意図では、両者は叙述の進行とともに有機的に結びついて、やがて渾然と一体をなすはずだったが、じっさいはどうだろうか。

著者はこの目的のために、「類似の感覚」なる技法を使う。45ページに、「『類似』の悪魔が彼をもてあそんでいるのだ」という文があるが、この「『類似』の悪魔」というのは、原語では le démon de l'Analogie で、マラルメの「類推の魔」と同じだ。もう少し先には「酷似の妖術」という言葉も出てくる。要するに、著者は「類推の魔を御す男」として、ボードレール伝来の交感(correspondances)を小説に応用するのである。

彼は《類似の感覚》と呼びうるようなものを持ちあわせていた。それは補足的な、脆く貧しい感覚だが、幾千もの微細な紐で事物を互いにむすびあわせ、空中に浮遊する蜘蛛の糸で木々を縁組みさせ、彼の魂と嘆き悲しむ尖塔とのあいだに無形の通信をつくりだすものであった。(p.64)


この「類似の感覚」は、亡妻と都市、亡妻と愛人、鰥夫と都市との間にそれぞれ働いているようだ。そのバランスがうまくとれているかぎり、小説は破綻をきたすおそれはない。とはいえ、「語りの必然性」のほうに重心が傾くにつれ、しだいに軋轢が生じ、「酷似の妖術」は潰えていく。結末にいたって、「物語」はついに「詩」を押しのけてしまう。

男は最終的に愛人を殺す。しかし、それが現実に起ったことか、夢の中での出来事かは、だれにもわからないだろう。なぜなら、すべてを包み込むブリュージュの町そのものが、夢とも現実ともつかぬあいまいな領域に漂っているのだから。


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この小説には、細部におもしろい記述がみられる。たとえば、ブリュージュの町の女たちが窓の外枠に取り付けている、「密偵」と呼ばれる一種の手鏡。これは監視カメラの役割を果たすもので、これによって主人公の行動は逐一町の住人たちの知るところとなる。かくて、「悪口の雑草は、この死の都においてはあらゆる舗石のあいだから生い茂る」(p.57)

107ページに、「いまは町それ自身が、町全体を水びたしにした雨のなかに溶けこみ、流れさり、溺れてしまって、もはやこの世に存在しないかのよう……すると、それと対をなす悲しみがこみあげてくる」とあるが、これはフェルナン・クノップフの有名な絵にヒントを与えただろうか?



118ページには、教会を飾る往昔のフランドルの画家たちに関する記述がある。Pourbus, Van Orley, Érasme Quellyn, Crayer, Seghers といった、われわれにはなじみのない画家の名前が列挙してある。こういうのは、かつては黙って見過ごすだけだったが、今では画像検索という強力なツールがあるので、その気になればどんな絵を描いた画家たちなのか、手軽に知ることができる。


Pieter Pourbus (1523-1584), Het Laatste Avondmaal (1562)


Van Orley, Virgen con el Niño


Erasmus Quellinus, Holy Family in a Wreath of Flowers


Gaspar de Crayer, Caritas Romana


Hercules Seghers

カルロス・シュヴァーベ


私が最初に象徴派の絵を知ったのは、高校のころ買ったボードレールの対訳詩集の表紙においてだ。ペンギン版のその本に使われていた絵は、じつに衝撃的だった。この一枚で、Carlos Schwabe という画家の名前は、私の記憶に深く刻みつけられたのである。



たしかそれは1970年代の終りごろで、その数年後、1982年から1983年にかけて、「ベルギー象徴派展」というのが日本にきた。これも私には画期的な企画展だった。そのときの図録が手元にあるが、それを見ると、カルロス・シュヴァーベの作品は含まれていない。それもそのはずで、彼はベルギー人ではなくスイス人なのだ。しかし、彼の手掛けた、第一回の「薔薇十字展」のポスターなどを見るかぎり、ベルギー象徴派との親和性は高そうだ。



その次に私が見た彼の作品は、1988年に出た岩波文庫の『ペレアスとメリザンド』の中の挿絵だった。それには「挿絵 = CARLOS SCHWAB」とあって、シュヴァーベは自分の名前を Schwabe, Schwab と、二通りに書いていたことがわかる。

その岩波文庫の挿絵だが、どうもシャープさに欠けるのは、これがもともと線描ではなく、彩色された絵だったからで、ネットではそのうちのいくつかがカラーで見られる。オリジナルの本そのものは、おそろしく高い。



世紀末に出た戯曲の挿絵で、おそらくいちばん名高いのは、ワイルドの『サロメ』のために描かれたビアズリーのものだろう。これはもう完全にビアズリーがワイルドを食ってしまっている。明らかにやりすぎだが、シュヴァーベの挿絵はその反対で、むしろ原作に寄り添うように、つつましやかな佇まいを保っている。


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シュヴァーベに関する論稿のたぐいは、ネットも含めてきわめて少ない。これはおそらく、彼がいっとき薔薇十字展その他で華々しく活躍したとしても、20世紀に入ってからは、おもに挿絵画家として、絵画の本流から外れてしまったためではないかと思われる。芸術家をやめて職人になった画家に対して、世間は冷たい。かれらは美術史とはかけ離れた、愛書家の世界で、ごく一部のマニアの関心をそそるだけの地位に甘んじるほかないのだ。

彼の絵を集めて解説を付した、いわゆる画集もあることはあるが、高くて今すぐにはちょっと手が出ない。しかし、いずれは手に入れることになるだろう。そのとき、もしかしたら、ふたたびこの画家について、もうちょっとましなことが書けるかもしれない。

最後に、彼の作品をまとめて見られるサイトがあったので、それを下に紹介しておこう。

中村隆夫『象徴主義と世紀末世界』


今年(2019年)の8月に出たばかりの本だが、完全な新著というわけではなくて、根幹をなす部分は1998年に出た『象徴主義 モダニズムへの警鐘』をそのまま使ってある。第I部の10章と11章とが、新たに付け加えられた部分で、ページ数でいえば60ページ余り。以下にざっと内容をメモしておく。

1-1
第三共和制は、フランス革命の理想がほぼ実現された時代である。

1-2
フランスの第三共和制はブルジョワの時代であり、印象派の時代である。

1-3
印象派は、19世紀後半の明るい側面、つまり昼の精神を代表している。

2
1886年象徴主義にとって記念すべき年である。一例、モレアスの「象徴主義宣言」。

3
夜の精神としての象徴主義。現実的合理性への嫌悪と、神秘的世界への憧憬。

4
メランコリーは象徴派の鍵概念。

5
超越的なものへの憧憬と、それがつねには叶えられずに陥る絶望と。

6
恐怖と魅惑の根源としての死。

7
超越への契機としてのエロティシズム。

8
サロメスフィンクスに代表される、世紀末を支配した宿命の女たち。

9
隠秘学象徴主義への影響。

10-1
19世紀フランスには多数のオカルティストが輩出したこと。

10-2
隠秘学の目的は魂の救済である。

10-3
エリファス・レヴィについて。

10-4
オカルティストとしてのヴィクトル・ユゴー

10-5
明晰な狂人ジェラール・ド・ネルヴァルの、オカルティストとしての圧倒的な力量。

10-6
ジョゼファン・ペラダン

10-7
スタニスラス・ド・ガイタ

10-8
世紀末の薔薇戦争、ペラダン対ガイタ。

10-9
ブーラン神父をめぐる確執。オカルティストたちの「呪い合戦」。

10-10
エリック・サティと薔薇十字展。

10-11
アンドロギュヌスを「至高の一者」と同定すること。

10-12
薔薇十字展の成功と衰退。

11-1
ブリュージュとベルギー象徴派。

11-2
忘れられた偉人ペラダンの復活はなるか?

11-3
救済の象徴としてのアンドロギュヌス

11-4
宿命の女としてのスフィンクス

11-5
一種の先駆者としてのテオフィル・ゴーティエと、彼の絵(「ジゼル」)。

11-6
偉大な先駆者としてのエドガー・ポーと、彼の絵(ヴァージニアの肖像)。

  • 第II部、世紀末都市ウィーンとエロティシズム

1
1867年、オーストリアハンガリー二重帝国成立、その首都のウィーン。

2
1873年、ウィーン万国博覧会

3
エロティシズムの酵母としてのウィーン文化。

4
クリムトウィーン分離派

5
呪われた芸術家たち、シーレ、ココシュカ、ゲルストル。

6
反ユダヤ主義の嵐と、第二次大戦後のウィーン幻想派への布石。

  • おわりに

象徴主義の発展形としてのシュルレアリスム


こうしてみると、じつに魅力的なテーマが扱われていることがわかるが、記述は表面的で、突っ込んだ考察はなされていない。全体的に案内書という性格がつよく、かつ美術方面に力点がおかれているので、ここに紹介された画像などを手掛かりに、めいめいがさらなる探求に乗り出せばいいと思う。


象徴派のおもしろさ


私が象徴主義をおもしろく思うのは、それがフランス国内にとどまらずにあちこち伝播した点にある。前にちょっとふれたロシアはいわずもがな、われわれの住む極東の島国にまで、何人かのすぐれた紹介者をまって、この運動は伝わってきた。そして、この地にたしかな痕跡を残していった。

詩の象徴主義が、ほぼ同時代的に各地に広まったのは、おそらく文字という、伝達しやすいものを媒介としていたからだろう。しかし、絵や音楽になると、文字ほどたやすくは広まらない。日本における西洋音楽や、西洋美術の受容がどのように行われたか、私はつまびらかにしないが、おそらくそれは当時の支配的なイデオロギーに根差した、かなり一面的なものであったに違いない。そして、そういう流れのなかで、はたして日本に固有の象徴主義が成立する余地があったかどうか。

これはちょっと探求してみるだけの価値はある。少なくとも、ラファエル前派やモロー、それにベックリンあたりは明治の終りごろには日本にも紹介されていた。それと、象徴派といえるかどうか微妙だが、当時のグラフィック界を支配したビアズリー様式。ああいうものに触発された日本の画家がいてもおかしくない。

音楽については、なにしろ日本古来の音曲がまだ幅をきかせていた時代なので、ドビュッシーラヴェルの影響を受け入れるだけの準備は整っていなかったかもしれない。しかし、意外なところで意外な人が、そういったものを消化して、独自のものを作っていた可能性もないわけではない。

というわけで、明治大正期の本邦における芸術諸分野の象徴主義についても、今後は気にして行きたい。

いずれにしても、象徴主義のおもしろさは、それが完全に外国のものというわけでなく、たとえ稚拙なものであっても、日本にもその一派の作品が生み出されたところにある。国産の象徴派の作品に、異国の香りを感じ、また異国の作品のなかに、日本の伝統的な美学の谺をききとるのも、一種のコレスポンダンスといえるのではないか。そしてそれが、世紀転換期という限定された時期に、同時代現象として起ってきたというところに、無限のものを前にした畏怖ではなく、有限のものを前にした気安さをおぼえるのである。

象徴について


私は象徴派が好きなので、象徴という言葉にまでなにやら特別な意味合いをもたせたがる傾向があるが、象徴(シンボル)をその語源であるギリシャ語のシュンボロンにまで遡って考えてみると、これはいわゆる「割符」であって、神秘的なものでもなんでもないことが分る。割符とは、一般的にいえば、二つに割ったものの片割れだ。

象徴主義における象徴とは、その片方が永遠に失われた割符だと思えばいい。それだけでは元の半分なので、全体を復元するためには、その失われた半分をなんらかの方法で補わなければならないのだ。これを具体的にいえば、象徴派の詩なり絵なりを前にしたとき、われわれはその作品全体を一個の象徴とみなして、それが暗示する補完的なものの存在を、意識的にせよ、無意識的にせよ、脳裡に思い浮べる必要がある。

その際、論理に頼って、いわば理詰めで作品を解釈しようとしないこと。それよりむしろ、思考をなるべくゼロにして、無意識の底から意識の表面へと湧き上ってくるものに注意を向けること。

そう、理詰めで象徴を考えても、それは分析的判断というもので、はかばかしい成果は期待できない。考えるな、感じろ、というのはブルース・リーの有名なセリフだが、それを100年前に言ったのが、ほかならぬマラルメであった。彼は、象徴を分析の反対、すなわち総合であるとはっきりいっている。


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さて、象徴主義的な作品がそのようなものであることを理解したうえで、ひとつ注意すべきは、作品中に現れたかくかくしかじかのもの、たとえば詩ならある単語やフレーズ、絵なら描き出された個々の物象を象徴とみなしてはいけない、ということ。というのも、象徴という言葉は、一般的には「〇〇は△△の象徴である」というふうに使われることが多く、その〇〇はたいてい名詞であることから、象徴といえばなにか具体物をイメージしがちだからで、詩や絵に描き出された、謎めいた具体物がすなわち象徴であると、つい思いこんでしまうのである。

ところが、じっさいはそうではない。象徴派の絵の解説などでよく見かける、髑髏が死を、書物が智恵を、三角形が三位一体を象徴している、とかいうのは、たいていは寓意の説明であって、ここで問題にしている象徴とは位相が異なる。寓意がふんだんに盛り込まれているからといって、それがただちに象徴主義的な作品というわけではないのだ。

一篇の詩なら詩、一幅の絵なら絵が、そのままひとつの象徴になっているのが、象徴派の作品なのである。外形と中身とは完全に一致していて、たがいに一ミリも離れていない。象徴と、象徴するものと、象徴されるものとが渾然と三位一体をなしているところに象徴主義の特色があるのだ。

そういう意味で、いわゆる図像学的なアプローチは、象徴派にはあまり有効ではないように思う。というのも、寓意や記号なら作品中にふんだんに盛り込めるが、作品そのものを象徴と化すことは、意識的にできるわざではないからだ。象徴派の作品は、それがすぐれたものであるかぎり、作者の意図を離れたところで、知らずしらずのうちに象徴になってしまうのであって、そういう無意識からにじみ出たようなものが、象徴主義における勝義の象徴なのである。