象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

象徴について


私は象徴派が好きなので、象徴という言葉にまでなにやら特別な意味合いをもたせたがる傾向があるが、象徴(シンボル)をその語源であるギリシャ語のシュンボロンにまで遡って考えてみると、これはいわゆる「割符」であって、神秘的なものでもなんでもないことが分る。割符とは、一般的にいえば、二つに割ったものの片割れだ。

象徴主義における象徴とは、その片方が永遠に失われた割符だと思えばいい。それだけでは元の半分なので、全体を復元するためには、その失われた半分をなんらかの方法で補わなければならないのだ。これを具体的にいえば、象徴派の詩なり絵なりを前にしたとき、われわれはその作品全体を一個の象徴とみなして、それが暗示する補完的なものの存在を、意識的にせよ、無意識的にせよ、脳裡に思い浮べる必要がある。

その際、論理に頼って、いわば理詰めで作品を解釈しようとしないこと。それよりむしろ、思考をなるべくゼロにして、無意識の底から意識の表面へと湧き上ってくるものに注意を向けること。

そう、理詰めで象徴を考えても、それは分析的判断というもので、はかばかしい成果は期待できない。考えるな、感じろ、というのはブルース・リーの有名なセリフだが、それを100年前に言ったのが、ほかならぬマラルメであった。彼は、象徴を分析の反対、すなわち総合であるとはっきりいっている。


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さて、象徴主義的な作品がそのようなものであることを理解したうえで、ひとつ注意すべきは、作品中に現れたかくかくしかじかのもの、たとえば詩ならある単語やフレーズ、絵なら描き出された個々の物象を象徴とみなしてはいけない、ということ。というのも、象徴という言葉は、一般的には「〇〇は△△の象徴である」というふうに使われることが多く、その〇〇はたいてい名詞であることから、象徴といえばなにか具体物をイメージしがちだからで、詩や絵に描き出された、謎めいた具体物がすなわち象徴であると、つい思いこんでしまうのである。

ところが、じっさいはそうではない。象徴派の絵の解説などでよく見かける、髑髏が死を、書物が智恵を、三角形が三位一体を象徴している、とかいうのは、たいていは寓意の説明であって、ここで問題にしている象徴とは位相が異なる。寓意がふんだんに盛り込まれているからといって、それがただちに象徴主義的な作品というわけではないのだ。

一篇の詩なら詩、一幅の絵なら絵が、そのままひとつの象徴になっているのが、象徴派の作品なのである。外形と中身とは完全に一致していて、たがいに一ミリも離れていない。象徴と、象徴するものと、象徴されるものとが渾然と三位一体をなしているところに象徴主義の特色があるのだ。

そういう意味で、いわゆる図像学的なアプローチは、象徴派にはあまり有効ではないように思う。というのも、寓意や記号なら作品中にふんだんに盛り込めるが、作品そのものを象徴と化すことは、意識的にできるわざではないからだ。象徴派の作品は、それがすぐれたものであるかぎり、作者の意図を離れたところで、知らずしらずのうちに象徴になってしまうのであって、そういう無意識からにじみ出たようなものが、象徴主義における勝義の象徴なのである。