象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

篠田一士、諸井誠『世紀末芸術と音楽』


1983年に出た往復書簡集(音楽之友社)。

けっこうおもしろかったので、ネットにレヴューはあがっていないかな、と思って調べてみたが、この本に言及した記事は見当らなかった。

考えてみれば、1980年くらいから、「世紀末」という文字が一種の流行語のようになって、そういう名前を冠した書物が次から次へと出ていたような記憶がある。私がそういうものに関心をもっていたせいかもしれないが、世を挙げての世紀末ブームだったような気がする。

それがいったん2001年を迎えて二十一世紀になったとたん、その流れがぴたりと止ってしまった。それはまあ当然だろう。もはや世紀末でもない時代に世紀末ものがはやるわけがない。

とはいうものの、私の関心の的である世紀末は、二十世紀末ではなく十九世紀末なので、もちろん世のはやりすたりとは何の関係もない。それだからこそ今こうしてこういうブログを書いているわけだが、たんに時流に便乗したものであったとしても、あのころの熱に浮かされたような「世紀末ブーム」にはちょっと懐かしいものを感じてしまう。

さて本書だが、これもまたそういうムードの一環として企画されたもので、二人の音楽好き(片方は批評家、片方は作曲家)のあいだに交わされた往復書簡である。題名が示すとおり、世紀末芸術のもろもろが、その後(つまり二十世紀)の音楽にどういう関わりをもっているか、を考察したものだ。

こういう観点は、私にはすばらしく魅力的なので、この本もおもしろく読んだが、ヨーロッパの芸術が、少なくとも1930年代あたりまでは、じつにまっとうな歩みを続けていたことを改めて思う。その後、主導権はアメリカにわたり、第二次大戦後はアメリカ主導のかたちで芸術一般がポップアート化され、それが前世紀末(20世紀末)を経て今日に至っている。

二十世紀は少なくともベルクの『ルル』というオペラを生み出した。二十一世紀には、後世に残るようなオペラは誕生するのだろうか?

アルバン・ベルク『ルル』


これは、ある人々によれば、二十世紀最高のオペラらしい。そういうものに出会えただけでも、ヴェデキントの戯曲を読んだ価値はあった。



主役のクリスティーネ・シェーファーは、シェーンベルクの歌曲などでは「知的なリリックソプラノ」という感じだったが、このオペラでは非常に妖艶で蠱惑的な歌唱と演技を見せている。これは私にはちょっとした衝撃だった。ブルックシャンの大岡昇平も、このルルなら納得するのではないか。脇を固める人々もかなりの熱演で、こういうものが只で見られるとはいい時代になったものだ。

さて、私にとって、オペラは何よりもまず音楽なので、目をつぶって、耳だけで鑑賞に耐えるかどうかが大事なのだが、このベルクの作品はどうだろう。音楽そのものとしておもしろいかどうか。

無調ということで敬遠する向きもあるだろうけど、無調には無調の歌い方があるので、ベルクの無調は私にはけっこう心地よく響く。少なくともシェーンベルクよりはおもしろい。とはいうものの、この作品をヴィジュアルなしで3時間聴き続けることができるか、といわれれば、ちょっと厳しいものがある。

ひとついえるのは、3時間もこの手のものを聴き続けていれば、どんなものでもワーグナーになってしまう。無調であるか、調性があるかは関係ない。集中力が低下してくれば、どんなオペラもワーグナーに聞こえてくるのだ。それはある意味ではワーグナーの偉大さを語るものかもしれない。

パプスト『パンドラの箱』

1928年のサイレント映画。この一作で、ルイーズ・ブルックスは映画史上にその名をとどめることになる。



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じっさいのところ、この映画もまたそれなりに忠実に原作を追っているけれども、なんといってもヴェデキントの戯曲が、およそ劇的なおもしろみを欠いたもので、ただひとえに登場人物の異常さと、雰囲気の怪奇性のみ追い求めたようなところがあって、筋書きとしてはまれにみる凡作なのである。ただ、そのことだけをもってヴェデキントを凡庸な作家とみなすのは早計で、彼の作品が時代を映す鏡のようなものであるからこそ、「ルル」は世代を超えて読み継がれ、新たな作品として何度もよみがえってくるのだ。

パプストの映画は、ヴェデキントの劇のもつ下品さやいかがわしさを払拭したうえで、ルイーズ・ブルックスという適役を得て、原作とは別種のシックな趣を出すのに成功している。しかしながら、ここでは映画の魅力のほとんどがルイーズ・ブルックスに寄りかかっているので、映画を見たというよりは、生きて動いているルイーズ・ブルックスを見た、というほうが実情に近い。

もちろん好き嫌いはあるだろうが、この映画におけるルイーズ・ブルックスの突出ぶりには目覚ましいものがある。ここでは、筋書きも、演出も、他の登場人物も、すべてがブルックスを盛り立てるために存在している。つまり、ブルックス以外のすべてはたんなる口実、プレテクストにすぎないのだ。

山口昌男はこの映画を8回か9回見ているという。彼はパリの映画研究所かなにかで、特権的な状況においてかつてのサイレント作品を見まくっていて、それがまた自慢の種なのだが、こんにちでは動画サイトでそういうものはいくらでも見られるので、山口昌男的な視座にはもはやそれほど価値はなくなっているといえるだろう。

とはいうものの、山口の映画の見巧者ぶりには驚くべきものがあって、彼の映画評を集めた『スクリーンの中の文化英雄たち』という本には、そんな彼の魅力がいっぱいつまっている。いまの若い人にはどうだか分らないが、1995年ごろに新作を見るのをやめてしまった私のようなオールドファンには、かなりたまらない本になっている。

ヴァレリアン・ボロフチク『ルル』


思いがけず袋小路のようになっている「ルル」関連のあれやこれやだが、あまりこういうことにかかずらっているといつまでたっても埒が明かないので、気になるものだけさっさと片付けるとしよう。

ボロフチクは私のお気に入りの映画作家で、彼に「ルル」を映画化した作品があることを知った私は、さっそく探してみた。メジャーな動画サイトでも見られるようだが、こういうのはすぐに削除されるので、比較的安定していると思われるのを次に紹介しておこう。


https://www.erogarga.com/lulu-1980-walerian-borowczyk/


エロ関連のサイトなので、あまりお勧めではないのだが、まあ只で見られるだけありがたい。

比較的忠実に原作を追っているようだが、それだけに筋書きのつまらなさが強調されてしまい、ボロフチクならではのおもしろみがほとんど感じられなかった。なによりもルル役の女優があまり私の好みではないのだ。そこらへんのレヴューに出ているような踊り子をひっぱってきて、そのまま映画に出演させたようなところがある。

けっきょくのところ、いちばんの見どころは、最後の切り裂きジャックによる殺害の場面だろう。こんなところにしか見どころがないというのも困ったものだが、ウド・キアはさすがの名演で、伯爵令嬢ゲシュヴィッツ役の女優もかなりの怪演で見るものを惹きつける。

なんでボロフチクが1980年にこういう文芸ものを作ったのか、よく分らないし、この作品で何をしたかったのかも不明だ。その翌年に作られた「ジキル博士と暴行魔ハイド」というのが、スティヴンソンの原作を完膚なきまでにぶちこわした八方破れの怪作で、こういうものにボロフチクの本領がより効果的なかたちで発揮されているように思う。

映画は換骨奪胎とか脱構築とか、そういった方向でこそ成功を期待できるので、原作べったりの文芸ものではダメなのだ。

山口昌男によるブルックス復興の第一声


大岡昇平によれば、山口昌男が1975年に「朝日新聞」に出した小文が、ルイーズ・ブルックス復興の「戦後の第一声」である。その小文はのちに「スクリーンの中の文化英雄たち」という本に、「女性──この『存在論的他者』」という題のもとに収められた。

この小文は、まず「何故今ごろ、これほどルイーズ・ブルックスに私はこだわるのであろうか」という著者の自問とともに始まる。この「何故」に対する回答は、ついに語られないまま終るのだが。

ついでやや唐突にジンメルが引き合いに出される。ジンメルは「異人論」において、社会学的他者として「異人」を、また存在論的他者として「女性」を論じているらしい。

女性が存在論的他者である、とはどういう事情を指しているのだろうか。

二元論的な思考で世界を抽象的にとらえる男性的な形式は、「存在」から「理念」への道である。その過程がいわゆる「歴史」である。

いっぽう女性は、宇宙論的に自足している。ジンメルはいう、「女性の持つ(自足による)閉鎖という形式は、昔から宇宙的象徴性の香りを女の上に吹きかけている……」

平たくいえば、女性は存在の根柢に触れているのだ。

そして山口昌男は、「『地霊』と『パンドラの箱』というヴェデキントの表現主義の作品は、そのような存在するものの奥に深く根を降ろし、歴史的世界を超越する故に断罪されなければならない神話的女性「ルル」を描き出し」ている、と書いている。要するに、この戯曲において、存在論的他者である女性性が描き出されている、といいたいのであろう。

次にパプストの映画『パンドラの箱』に言及して、「映像芸術がそれを生み出した芸術をも、物語性をも乗り越えることが出来ることを示した」ことを称揚しながら、しかしそれが可能になったのは、ひとえにルイーズ・ブルックスという女優を得たことによる、と断案を下す。

なぜルル役者としてはルイーズ・ブルックスしか考えられないか。それは彼女が「存在の深奥から、ほとんど男性、女性の差異を超えるものとして立ち現われた「地の精霊」」であるらだ、という。これが、この小文のいわば結論だ。

男性・女性の差異を超えて立ち現れる「大地の精霊」、ゲニウス・ロキとしてのルイーズ・ブルックス、そういうものが山口昌男をとらえた、というわけだが、これだけではいかにも説明不足で、いったいどうして山口がブルックスにこだわるのかの説明にはなっていない。

彼の世界観からすれば、ここはどうしても「道化」というキーワードをすべりこませたいところだが、ルルはともかくとして、ルイーズ・ブルックスと道化とを結合せしめることは可能だろうか?

またよしんば可能だとして、そのことがルイーズ・ブルックスの魅力の謎を少しでも解き明かすことになるのだろうか。

というような感想をもった。