象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

ヴァレリアン・ボロフチク『ルル』


思いがけず袋小路のようになっている「ルル」関連のあれやこれやだが、あまりこういうことにかかずらっているといつまでたっても埒が明かないので、気になるものだけさっさと片付けるとしよう。

ボロフチクは私のお気に入りの映画作家で、彼に「ルル」を映画化した作品があることを知った私は、さっそく探してみた。メジャーな動画サイトでも見られるようだが、こういうのはすぐに削除されるので、比較的安定していると思われるのを次に紹介しておこう。


https://www.erogarga.com/lulu-1980-walerian-borowczyk/


エロ関連のサイトなので、あまりお勧めではないのだが、まあ只で見られるだけありがたい。

比較的忠実に原作を追っているようだが、それだけに筋書きのつまらなさが強調されてしまい、ボロフチクならではのおもしろみがほとんど感じられなかった。なによりもルル役の女優があまり私の好みではないのだ。そこらへんのレヴューに出ているような踊り子をひっぱってきて、そのまま映画に出演させたようなところがある。

けっきょくのところ、いちばんの見どころは、最後の切り裂きジャックによる殺害の場面だろう。こんなところにしか見どころがないというのも困ったものだが、ウド・キアはさすがの名演で、伯爵令嬢ゲシュヴィッツ役の女優もかなりの怪演で見るものを惹きつける。

なんでボロフチクが1980年にこういう文芸ものを作ったのか、よく分らないし、この作品で何をしたかったのかも不明だ。その翌年に作られた「ジキル博士と暴行魔ハイド」というのが、スティヴンソンの原作を完膚なきまでにぶちこわした八方破れの怪作で、こういうものにボロフチクの本領がより効果的なかたちで発揮されているように思う。

映画は換骨奪胎とか脱構築とか、そういった方向でこそ成功を期待できるので、原作べったりの文芸ものではダメなのだ。

山口昌男によるブルックス復興の第一声


大岡昇平によれば、山口昌男が1975年に「朝日新聞」に出した小文が、ルイーズ・ブルックス復興の「戦後の第一声」である。その小文はのちに「スクリーンの中の文化英雄たち」という本に、「女性──この『存在論的他者』」という題のもとに収められた。

この小文は、まず「何故今ごろ、これほどルイーズ・ブルックスに私はこだわるのであろうか」という著者の自問とともに始まる。この「何故」に対する回答は、ついに語られないまま終るのだが。

ついでやや唐突にジンメルが引き合いに出される。ジンメルは「異人論」において、社会学的他者として「異人」を、また存在論的他者として「女性」を論じているらしい。

女性が存在論的他者である、とはどういう事情を指しているのだろうか。

二元論的な思考で世界を抽象的にとらえる男性的な形式は、「存在」から「理念」への道である。その過程がいわゆる「歴史」である。

いっぽう女性は、宇宙論的に自足している。ジンメルはいう、「女性の持つ(自足による)閉鎖という形式は、昔から宇宙的象徴性の香りを女の上に吹きかけている……」

平たくいえば、女性は存在の根柢に触れているのだ。

そして山口昌男は、「『地霊』と『パンドラの箱』というヴェデキントの表現主義の作品は、そのような存在するものの奥に深く根を降ろし、歴史的世界を超越する故に断罪されなければならない神話的女性「ルル」を描き出し」ている、と書いている。要するに、この戯曲において、存在論的他者である女性性が描き出されている、といいたいのであろう。

次にパプストの映画『パンドラの箱』に言及して、「映像芸術がそれを生み出した芸術をも、物語性をも乗り越えることが出来ることを示した」ことを称揚しながら、しかしそれが可能になったのは、ひとえにルイーズ・ブルックスという女優を得たことによる、と断案を下す。

なぜルル役者としてはルイーズ・ブルックスしか考えられないか。それは彼女が「存在の深奥から、ほとんど男性、女性の差異を超えるものとして立ち現われた「地の精霊」」であるらだ、という。これが、この小文のいわば結論だ。

男性・女性の差異を超えて立ち現れる「大地の精霊」、ゲニウス・ロキとしてのルイーズ・ブルックス、そういうものが山口昌男をとらえた、というわけだが、これだけではいかにも説明不足で、いったいどうして山口がブルックスにこだわるのかの説明にはなっていない。

彼の世界観からすれば、ここはどうしても「道化」というキーワードをすべりこませたいところだが、ルルはともかくとして、ルイーズ・ブルックスと道化とを結合せしめることは可能だろうか?

またよしんば可能だとして、そのことがルイーズ・ブルックスの魅力の謎を少しでも解き明かすことになるのだろうか。

というような感想をもった。


大岡昇平『ルイズ・ブルックスと「ルル」』


1984年に出た大判の本(中央公論社)。ブルックス大岡昇平との取り合せはちょっと奇異の感を与えるが、彼は学生のころ京都で『パンドラの箱』を見て、ブルックスの魅力に参ってしまったらしい。それが昭和5年(1930年)のことで、それからほぼ半世紀後の1975年に山口昌男が雑誌の論稿でブルックスとルルを取り上げたのが、戦後におけるブルックス復活の嚆矢だったとのこと。今日からすれば意外な気もするが、ルイズ・ブルックスはそのころまで日本ではほとんどだれも注目せず、まったく忘れ去られた存在だったらしい。

もっともそれは日本だけの事情ではなく、世界的にもそうだったらしい。そんななかで、1970年ごろからじょじょに復活の動きがあって、そういう潮流の日本におけるモニュメンタルなあらわれが、この大岡昇平の本だった。

さて本書だが、資料的な記述に埋め尽くされて、意外と著者の肉声が聞こえてこない憾みがある。彼がブルックスにそれほど惹かれた、その根本的なところがまったく語られておらず、自分で彼女の魅力を数え上げるかわりに、内外の文献を引用してごまかしているようなところがある。著者のインテリとしての誇りから、あまり赤裸々に自己の内面を吐露することを憚ったのだろうか。個人的なオマージュを脱したところに客観的なブルックス像を打ち立てたい、というのが著者の本意だったのかもしれないが、あまり成功しているようにはみえない。

資料的な面では、1984年(すでに40年近い昔だ)までのものに限られるが、魅力的なものも少なくないので、以下に抜粋しておこう。


     * * *


大岡昇平の論稿ふたつ。「海」1984年1月号、3月号(本書のもとになったもの)

大岡昇平『少年』にてルイズ・ブルックス(以下LBと略記)に再三言及。

1983年、仏文『LBによるLB』(原著は1974年の『ハリウッドのルル』)

同年、仏文『あるアンチスターの肖像』(初版1977年)

1977年、俳優座『ルル』上演。栗原小巻主演。台本は岩淵達治(岩波文庫版の原型)

ヴェデキントのテクスト、「世界戯曲全集」第16巻(昭和5年)伏字多し

大正11年(1922年)、研究座「地霊」上演。(花柳はるみ主演)

パプストの映画『パンドラの箱』日本での封切、京都で昭和5年2月13日、東京で2月20日

昭和5年6月21日-24日、築地小劇場にて蝙蝠座による「ルル子」(パプストの翻案)上演。主演は17歳の三宅艶子

三宅艶子の回想「別冊 婦人公論」1980年秋号

山口昌男朝日新聞」1975年12月8日、LB小論

山口昌男「新劇」1977年9月の論文→『道化の宇宙』(1980年)に収録

諸井誠、篠田一士 往復書簡 1982年、「音楽芸術」、のちに単行本『世紀末芸術と音楽』(1983年)

大江健三郎「波」1984年1月号 論文

アルバン・ベルクの「ルル」完全版、パリ、オペラ座(1977年)

パノフスキーパンドラの箱

ルルの霊感源のひとつ、Félicien Champsaur の Lulu (1888年)、パントマイム

1968年、アドルノの「アルバン・ベルク

ブルックス断髪、ブルックス刈り、鋭角断髪、わが国の少女挺身隊

LB復活はフランスから

1953年、アド・キルー『映画とシュルレアリスム

ロッテ・H・アイスナー(Eisner)、1952年、『悪魔の映写幕(Ecran Démoniaque)』(『カリガリからヒトラーまで』につづくすぐれた映画史論)

LBの文章、1956年「パプスト氏」、のち『ハリウッドのルル』に収録

LB「回想録を書かない理由」、平野京子訳「イメージフォーラム」1982年11月号

話の特集」1981年1月号、山田宏一、1頁のオマージュ

ジル・ドゥルーズ『シネマI』(1983年)

日本におけるLBのファン、四方田犬彦蓮見重彦筒井康隆。筒井は戦前の「キネマ旬報」を買い占めていた。


F. ヴェデキント『地霊・パンドラの箱 -- ルル二部作 -- 』


岩淵達治訳の岩波文庫。この作品のふしぎな魅力がどこからくるかといえば、それはおそらくポルノグラフィックということでけりがつくのではないかと思う。ポルノに特徴的な、背徳と官能と残酷とが、この戯曲にはふんだんに見出せるのだ。そしてもうひとつの要素として、淫楽殺人に代表される猟奇ということがある。ポルノと猟奇、それにドイツ世紀末特有の病んだ雰囲気、そういうものがごちゃまぜになったところに、この戯曲の魅力の源泉があると思う。

それともうひとつ、私がおもしろく思うのは、この作品を核として一種の磁場が形作られているようにみえることだ。「ルル」を中心にした精神史というものが考えられるのである。そこには私の興味を惹くものがいくつもある。たとえば、デーメルの詩作品などもおそらくこの磁場と無関係ではない。

ただ、話をあまり大きくする前に、とりあえず押さえておきたい作品として、アルバン・ベルクのオペラと、ルイズ・ブルックス主演のサイレント映画、それにポーランドのワレリアン・ボロフチクが撮った映画がある。幸いなことに、これらはすべて動画サイトで視聴できる。また気が向いたら感想など書いてみたい。


池内紀編訳『ウィーン世紀末文学選』


本書にいわゆる「世紀末」とは、1890年代からナチスドイツによるオーストリア併合(1938年)までを想定しているらしいが、これはちょっと下限を長く取りすぎているような気がする。そのせいかどうか、収録作品の選択もどこか散漫な感じで、全体として焦点がぼけているように思う。本書を通読しても、世紀末ウィーンの精髄をつかんだ、という実感のようなものは得られないだろう。

まあそれはそれとして、象徴主義の観点からみた場合、ベーア=ホフマンの「ある夢の記憶」がもっともすぐれている。これと、ホフマンスタールの「バッソンピエール公綺譚」を除けば、他の作品は象徴主義とは無縁の短篇ばかりだ。もちろん、だからといって作品としての価値が下がるわけではないけれども。

さて、そのベーア=ホフマンの作品だが、私がこういうものをおもしろく思うのも、象徴主義に対する興味が根底にあるからで、もしそうでなければ、退屈でつまらない作品だと思ってしまったかもしれない。じっさい、ここにはロマネスクの要素はほとんどない。この作品の持ち味はまったく別のところにある。筋書のおもしろさから限りなく離れたところで、世紀末ウィーンの雰囲気を、というよりも、象徴主義のひとつの局面を同時代的にとらえることに成功しているのだ。われわれはここに絵画における分離派や、音楽における無調派と同じ種類の芸術的営為を感じ取ることができるだろう。

「ある夢の記憶」というのは秀逸な題名で、それは主人公がみた「ある夢」の追求であると同時に、この短篇自体が、集合的無意識におけるひとつの夢の記録のような性質をもっている。変な話だが、私はこの作品を読みながら、かつて読んだ同じような話をいくつも思い出していた。それはたとえばザイツェフの「静かな曙」であり、夏目漱石の「倫敦塔」であり、ヴィリエ・ド・リラダンの「思い違うな!」であり、ローデンバッハの「死都ブリュージュ」であり、ジェラール・ド・ネルヴァルの「シルヴィ」である。

象徴主義小説は、国や時代を超えて、ひとつの連環をなしている、という(おそらく間違っているけれども魅力的な)考えを助長するような作品であった。