象徴派の周囲

象徴派に関する雑記、メモ、翻訳、引用など

映画における象徴主義

二十世紀中葉における象徴主義のスポークスマンであるホーフシュテッターは、「サンボリスムは現代のまっただなかに屹立している」と高らかに宣言している。そしてサンボリスム精神の現代における正統的な継承者として映画をあげている。これは私としても同感で、象徴主義が生き延びるとすれば、映画のなか以外にはないな、とつねづね考えているのだ。

それはそれとして、山口昌男の『スクリーンの中の文化英雄たち』と、種村季弘の『夢の覗き箱』という二冊の魅力的な映画本に触発されるかたちで、このところ自分でも驚くほど映画づいている。この半月ほどのあいだにかなりの数の映画を見た。といっても古い映画ばかりだが、そういったもの(ことにサイレント映画)に対しては、ユーチューブが非常に有効だ。こんなものがと驚くようなのがいくつもアップされている。山口、種村の映画本で興味をもったものが、すぐさま只で見られるのだ。こんなにありがたい時代はかつてなかった。

まあ、あまりにもただちに欲望が叶えられてしまうのは、よくない面もあるのだが、私のようにあと何年生きるかわからないものにとって、時間ほど大切なものはない。かつてのように、のんびりと構えているわけにはいかないのだ。

というわけで、最近見た映画について、象徴派の観点から、少し感想を書こうと思う。あくまでも、周回遅れ*1の象徴派である私の個人的な見解だが。


     * * *


ルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』と『黄金時代』。これはどちらもシュルレアリスム映画に分類されていて、そういったものとして古典的な扱いを受けている。私もそれに異存はないが、もしこれらにダリの手が入ってなくて、ブニュエルが単独で作っていたなら、つまらないシュルレアリスム的要素が稀薄になって、よりいっそう象徴主義の圏域に近づいていただろう。ただ、作中における暴力的表現だけは如何ともしがたいが。



マイケル・クライトンの『ウェストワールド』。種村本に出ていたので、懐かしさもあってアマゾンにて鑑賞。おもしろい映画だったが、サンボリスムとはまるきり無縁だ。

ロバート・アルドリッチの『何がジェーンに起ったか』と『ふるえて眠れ』。かつて買ったDVDを再鑑賞。怪奇ムードただよう展開には思わず引き込まれるが、ここでもまたサンボリスム微塵も感じられない。

羽仁進の『彼女と彼』。前にユーチューブで見たのをDVDで再鑑賞してみたが、何度見てもすばらしい映画、大好きな映画だ。ここにはあからさまにではないが、象徴主義のあれやこれやが影を落している。しかしそれを分析して取り出すのはやっかいだし、労多くして報われるところは少ないだろう。この映画、うわべは社会派だが、内実はじつに象徴主義的なのである。

フォン・スタンバーグの『嘆きの天使』。パプストの『ルル』につづく、妖婦ものということで見てみた。この映画で一躍有名になったマレーネ・ディートリッヒだが、私にはピンとこなかった。そもそも当時の映画における妖婦、つまりヴァンプとか呼ばれている女たちは、じっさいのところそれほど「宿命的」なわけではなく、クララ・ボウやテダ・バラとかを見ても、あまり邪悪という感じはしない。そして妖婦ものをいくら漁っても象徴主義的なものが出てくるわけではない。

フェリーニの『道』。これも大昔見たものをアマゾンで再鑑賞。じつは羽仁進の『彼女と彼』の「彼女」には、ジェルソミーナ的ななにかがあるのではないか、と思って見直してみたのだが、これは私の勘違いだった。メディアム(中間的存在者)という面を除いては、両者に共通するものはなにもない。ただし、この映画にすでにフェリーニ的なるものが散見するのが私の注意を惹いた。たとえば通りを歩く裸馬とか、羊の群とか。ああいったところに象徴主義の萌芽を認めることができるだろう。

ドライヤーの『吸血鬼』。これもかつて買ったDVDの再鑑賞。これは私の考える象徴主義映画にかなり近い。ほとんど理想的といってもいいほど近いのだが、フィルムの質がわるくて映像美がかなり損なわれているのが残念だ。しかし、この霧のなかでぼやけているような映像が、かえって象徴主義風の効果を高めているのかもしれない。

オットー・リッペルトの『ホムンクルスの復讐』。種村本で知ったものをユーチューブにて視聴。6時間を超える長篇を編集してイタリア語の字幕をつけたものだが、雰囲気だけは味わえる。とはいっても、題名から期待するほどの内容ではなかった。ドイツ表現派は象徴派と近いようでじつはあまり関係がないのではないか、という思いは前からある。たとえば有名な『カリガリ博士』にしても象徴風味は稀薄だ。表現派は表現派として楽しむのが正しい行き方だと思われる。

バスター・キートンの『キートン将軍』。これもユーチューブで視聴。山口本でキートンが大々的に扱われているので見てみた。この年になるまでキートンを知らなかったのはわれながらうかつだった。目を見張るような場面の続出に唖然となる。山口昌男キートンを道化の領域に引っぱり込みたいようだが、キートンと道化というのはほとんどトートロジーなので、あまり意味があるとは思えない。ともかく戦前のアメリカンコメディの凄さを見せつけられた。

セルジュ・ブルギニョンの『シベールの日曜日』。かつてニコニコ動画でみたものをDVDにて再鑑賞。これはいけなかった。途中で見るのがつらくなってきて、見終ったときはもう二度とは見たくないと思った。こういう感情移入型の映画は一度はいいが二度見るものではない。やはり抽象型の映画のほうが私には向いている。

というわけで、長いわりに内容の薄い記事になってしまったが、いちおうこれにてアップする。

*1:この場合の一周というのは一世紀すなわち100年だが

種村季弘と象徴派


ホーフシュテッターの翻訳者である種村季弘は、映画評論の分野でも活躍した。ところでそのホーフシュテッターは、象徴派の未来を映画のなかに見出している。そういう事情があるので、種村季弘にはもしかしたらホーフシュテッターの理論を応用した、象徴派の立場から眺めた映画評があるのではないか、という気がしてきた。そういうものがあるなら読んでみたい。じっさいのところ、映画における象徴主義というのは、簡単なようにみえてなかなか捕捉しがたいものがあるのだ。

とはいっても、種村の仕事は厖大である。そのどこに象徴派関連の論稿が潜んでいるか、まったく窺い知ることはできない。

とりあえず彼の映画評を見てみよう。ここに潮出版社から出た『夢の覗き箱』という本がある。この本のどこかにホーフシュテッターが影を落としていないだろうか。

というわけで、目を皿のようにして探してみたが、著者を積極的に象徴派と結びつけられるような論稿は見当らなかった。もちろん、そんなこととは無関係に彼の映画評はおもしろいが、ひとつだけ、これは彼ならではの着眼点だな、と思われたのが、キングコング図像学を論じてクプカに言及するあたりだ。

「この絵には右手に額に蛇を絡ませたスフィンクスの姿をしている女が横臥して、一枚のデッサンを描いている猿の方を慈愛とも冷笑ともつかぬ謎めいた表情で眺めやっている。猿が描いているデッサンは、何と、アダムとイヴが蛇のひそむ知恵の樹の左右に立っていてイヴが林檎を手渡そうとしている創世記の場面なのだ。原人アダムはこの瞬間からイヴの誘惑につれて禁断の性を知り、同時に死すべき存在と化して自然から分離される。クプカはこの創世神話をシニカルにも猿と女=スフィンクスにもう一度くり返させることによって進化論的に再解釈しているのである」


クプカ「獣性と神話との間で」1900年


種村は、この絵のスフィンクスの女と猿とは、まさに『キングコング』のアンとコングそのものである、と喝破して、通常のようにアンを犠牲者とするのではなく、むしろコングを誘惑する宿命の女(ファンム・ファタル)として位置づけている。

論そのものはこじつけくさいが、キングコングを語るうえでクプカなんていう画家を持ち出してくるところに彼と象徴派との接点を見たような気がした。

石川淳と象徴派


石川淳という作家は、はたして今でも読まれているのだろうか、という思いが頭をよぎる。どうも底が浅くて、すぐに飽きがくるような気がするのだ。本人はいっぱし文学の玄人のつもりで、文体もすばらしいが、かんじんの中身がすかすかなのである。

しかし、そんな彼の作品でも、私が非常に愛していて、何度も繰り返し読むものもある。『文学大概』と『夷斎座談』がそれだ。

彼は『文学大概』所収の「ヴァレリイ」という論稿のなかで『レ・デリケサンス』を引き合いに出している。といっても、ユイスマンスの『さかしま』と並べて書名を出しただけだが。そして次にアンドレ・バアルの大著『サンボリスム』に言及する。

どうも石川淳サンボリスム理解は、このバアルの本に依拠しているようだ。

バアルはともかくとして、彼の「ヴァレリイ」と次の「マラルメ」を読んでみよう。

彼によれば、「象徴派の考え方は、時間を分離したところで、図形を複雑化させるのに役立った」ということだ。そしてさらに、「サンボリスムが一時的の文学運動ではなく、今日の詩が経過しなければならなかったところの煉獄的季節であり、それのもつ意味が詩の形式のみならず本質にふれている」ことにも触れている。

彼のいうところを少し抜き出してみよう。

「すくなくともサンボリスムに直接影響を及ぼしたものの一つとしてウァグネルを除外することはできぬ。それがやがて詩と音楽の融合をくわだてたマラルメの意図につづく」

ヴィリエ・ド・リラダンの文章に早くもウァグネルの精髄を移そうとした跡を探すべきであろう」

「一つの特徴はサンボリスムのディオニゾス的性質であろう」

サンボリスム研究とは当然マラルメ研究を含むものでなければならぬ」

マラルメの詩は形式に於てことばを以てする音楽であり、内容に於て……ヘエゲル哲学の実現である」

「(ヴァレリイの)『テスト氏』の側からかえりみることはマラルメへの理解の契機となるであろう」

要するに、ヴァレリーの『テスト氏』から眺められた象徴主義の風景がある、というのが石川淳の主張なのである。これが正しいかどうか、そのうち検討してみよう。

彼の「マラルメ」は、読み物としてはおもしろいが、マラルメを理解するうえではあまり役に立たない。しかし、彼がこう書いているのは肯綮に中っている。

マラルメを理解するためには、ひとはみずからフランス語に熟達し、詩に通暁し、サンボリスムの史的由来を究明し、自分の頭脳をマラルメの詩世界の中に置いてみるがよい」

さて、私はといえば、マラルメを理解することはもう諦めてしまった。この内に爆弾をかかえた、うわべは静謐な、しかしどこまでもちぐはぐな一世界のなかで日々を暮すなんてまっぴらだ。マラルメ詩集も、その散文も、私の本棚から追放しよう。そしてマラルメ抜きの象徴派をわが安住の地としたい。

アドレ・フルーペットの頽唐詩集『レ・デリケサンス』


ガブリエル・ヴィケールとアンリ・ボークレールとの共著で、1885年に出たもの。1885年といえば、前年にユイスマンスの『さかしま』が出て、象徴派や頽唐派への関心が高まりつつあった時期で、この『レ・デリケサンス』もそういう流れにのった本として、けっこうな評判になったらしい。じっさい、象徴派の文学史には必ずといっていいほど言及されるが、その内容についてはあまり触れられていない。いったいどういう作品なのか。

本書の再版(ヴァニエ版)には、マリウス・タポラによる「アドレ・フルーペット伝」が序文代りに置かれている。もちろんこれは架空の伝記で、ガブリエル・ヴィケールの筆になるものだ。

ここでは、アドレ・フルーペットという名の、地方都市に生まれた一青年が文学に地道をあげ、やがてパリに出て、デカダン詩人たちの仲間入りをはたすまでの経緯が物語られているが、このフルーペットという人物は病的でもなければ奇矯でもなく、もちろん天才にはほど遠い。たんなる文学好きで世話好きの好青年にすぎないのだ。

ついで短い「緒言」があって、そのあとに18篇の韻文詩が並んでいる。

この18篇の詩を眺めていると、なんとなくヴィケールとボークレールの意図が見えてくる。それは何かというと、象徴派やデカダン派をネタにして、一種の紋切型辞典を作ろうとしたのではないか、ということだ。

象徴詩や象徴派から紋切型をとりあげて、そのパロディを作ることで、かれらを牽制しつつ嗤いのめすのがこの詩集の目的だったのではないか。もしそうなら、アドレ・フルーペットが凡庸きわまる人物として描かれているのも納得できる。

ヴェルレーヌマラルメとは本書のなかでも特別扱いされている。もちろん象徴派の二大巨頭と目されているのだが、ヴェルレーヌはブルーコトン、マラルメはアルスナルと、それぞれおやじギャグ的な変名が使われているところにも悪意が感じられる。ブルーコトンはあたかも阿呆王のごとく、そのご託宣には無条件の渇仰が与えられ、アルスナルはその詩文で文字どおりブルジョワどもを驚倒させる(作中における犠牲者はプーラール夫人)。

というわけで、なかなか手の込んだパロディ作品なのだが、いかに象徴派の凡庸さが強調されても、その凡庸さにすら美点を見出すようでないと、真の愛好家とはいえないだろう。私は一世紀ほど遅れてきた象徴派として、これら押韻の手管だけでできているような詩にもふしぎな魅力を感じる。われわれにはこういう極端にデフォルメされたものでしか、象徴詩の特異性を窺い知るすべはないのだ。

ちなみに題名のデリケサンスとは、辞書をひけば「潮解」という訳語が出てくるが、おそらくデカダンスの同義語だと思われる。

厨川白村によるレルベルグの紹介


このブログと並行して細々と続けているレルベルグの翻訳だが、今回の詩篇は自分で訳さずに厨川白村の訳詩を借りることにした。というのも、彼が「詩人ヴァン・レルベルグ」(『小泉先生そのほか』所収)で初めて日本にレルベルグを紹介したときに、この詩を訳しているからで、私にとってはある種の記念碑的なものになっている。


白村の紹介文は短いけれども要を得たもので、だいたいレルベルグに関して必要なことは押さえてある。これだけ知っていれば、レルベルグの詩を読むのに何の不都合もない。彼に関する細々した、プライヴェートなあれやこれやは、作品の読解に邪魔になるだけだ。たとえば、レルベルグはプレイボーイではなかったけれども、それでも何人かの女と不器用なラヴアフェアを繰り返している。しかしそんなことを知っても彼の詩を読むうえでなんのプラスにもならない。

白村は慧眼にも彼とラファエル前派との浅からざる関係を見抜き、さらにキーツ、コールリッジに比較し、また彼の詩の理想的な挿絵画家としてビアズリーをあげている。たしかに、『イヴの歌』にビアズリーが挿絵を描いていたら、どんな本ができあがっただろうか。想像するだけでもわくわくしてくる。

『小泉先生そのほか』にはほかにもイエローブックを論じた文とか、ケルト文芸復興概観だとか、世紀転換期の文芸に関するさまざまな論稿が収められている。大正8年(1919年)の刊行で、もう100年以上前の本だが、同時代的な関心を喚び起こすという点ではいまだに魅力を失っていない。